記事「徳川家康」 の 検索結果 1350 件
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三方が原の合戦の真相1571年 北条氏康死す。その子氏政は、上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と同盟を結んだ。後背の懸念がなくなった信玄に1572年本願寺から信長の背後をつくように依頼が来た。 信玄はそれを受け兵を..
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姉川の合戦の謎姉川の合戦は不思議である。数で不利な浅井・朝倉連合軍が何故、平地に出てきたのか?浅井は城にこもり、他の反信長の軍隊の動きを待っていれば状況はどうなったか分からない。 朝倉も同様である。 信長..
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信長の変化信長とお市は越えてはならぬ一線を越えていた。そして、信長の子を身篭ったまま、浅井家に嫁いだ。信長は知らず、お市のみが知っていた。そして、運命の子が生まれた。 長政は、このことを知ってしまった。そ..
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天地人 徳川家康徳川家康…松方弘樹 秀吉の死後、次の天下人として台頭。兼続・三成共通の敵。兼続は「謀反の兆しあり」と言いがかりをつけてきた家康に、「直江状」と呼ばれる挑発的な内容の返書を送って家康を激怒させ、..
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浅井長政の裏切りの真相信長が京都に帰ってみると、すでに反信長の勢力が近江一体に出来ていた。信長は自分の健在を示し、すぐに叛将たちの討伐を開始した。 命ぜられた将たちはよく戦い、確実に勝利を収めて行く。 この時期、..
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朝倉討伐と浅井の裏切り1570年4月 信長は、朝倉義景の討伐に出かけた。名目は、将軍からの上洛要請に対し逆らったというもの。 緒戦は連戦連勝。金ヶ崎城を陥落させた。 明日は敦賀に突入というときに、信じられない知ら..
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真田昌幸の巻 その2前回 戦国最強!徳川軍団 上田城へ迫る。 と ブログに 書いたまま 4ヶ月も 徳川軍団を 遅延?足止めに! ワシも 中々の戦略家 そうそう 真田昌幸の..
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信長の布石の見事さ話を戻して、小牧移転の年1563年、外交として婚姻政策をスタートした。今川に勝ち、本拠地を移し、そこが繁栄している様は他国にビッグニュースとして伝えられただろう。 評判は、領主にも届き、当然、政..
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信長の人を見る目人を見る目の非凡さ。 日本史上、信長は白眉である。 豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、蒲生氏郷、前田利家、佐々成政、荒木村重、高山右近、池田恒興、森乱丸、などの多く..
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秀吉の活躍信長は秀吉に何を観たのか? 素性は怪しい、風采は上がらない、戦闘力は無い。 こういう男を登用した信長の眼力は驚嘆に値する。 秀吉の発見は、信長という理想家そして、伝統・現実否定派でなけれ..
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信長の器量ずっと直江兼続を兼継と表現してきた。 思い込みに反省。 見ているのに気づかない。 意識が向いてない証左だ。 直江兼続か・・・それほど大物とは思えない。 信長の下で、秀吉、光秀..
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伊佐爾波神社;湯月八幡_[2](愛媛県松山市)先月の話。 伊佐爾波神社へ行ってきた。 この投稿は,以下の過去の投稿に修正が生じたため,再投稿したもの。 「伊佐爾波神社_..