記事「明治時代」 の 検索結果 275 件
-
『ファースト.ジャパニーズ ジョン万次郎』(中濱武彦 :講談社)万次郎は文政10年(1827)、足摺岬の中ノ濱の漁師の家に生まれる。兄と姉二人,妹の5人兄弟。 父親が8歳の時病没し、幼いながらも家計を助けるため漁網の繕い、小間使いなど懸命に働いた。 天保12..
-
西郷従道~西郷隆盛の三弟。海軍軍人として初めての元帥。近年、西郷従道の評価が見直されているように。これまでは”小西郷”として西郷隆盛の七光りで明治政府の高官に登った如くの見方がされていたが、実は、隆盛以下秀逸な人材が西南戦争で失われた後の明治政府を築き..
-
征韓論における朝鮮半島側の事情明治初期の征韓論論争は、その後の維新政府の行く末に大きな影響を与えたが、その原因を作った相手方の李氏朝鮮の事情はどうだったのだろうか。 我々日本人は朝鮮の歴史に疎いが、大雑把に振り返って..
-
ニコライ・カサートキン御茶ノ水駅の近くには三カ所の目立つ名所旧蹟がある。「神田明神」と昌平坂学問所で有名な「湯島聖堂」とあとのひとつが「ニコライ堂」だが、その歴史は一般にはあまり知られていない。 ニコライ堂(東..
-
前田正名~のちに『布衣の農相』と呼ばれ、生涯その身を農業,中小企業の発展に捧げた。前田正名は薩摩藩医前田善安の6男として嘉永3年(1850)に生まれる。 幕末の騒乱時代に遅れて生まれ、藩校で勉学の後慶応年間(1865~68)には長崎に遊学して研鑽を積む。 明治2年(1869)..
-
板垣退助~薩土盟約を成就させた男板垣退助は天保8年(1837)、土佐藩上士の乾正成(300石、馬廻格)の嫡男として生まれた。幼名を猪之助,名を正形といい,退助は通称。 少年期は素行が悪く,藩から2度の処罰を受け、父正成の死後、家..
-
伊東祐亨~日向の戦国大名の末裔伊東祐亨(いとうすけゆき)は天保14年(1843)、伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。伊東家は南九州の豪族.伊東氏の末裔。幼名は四郎といい、父親から、仁•義̶..
-
勝海舟、「東京奠都三十年祭」に寄せての感慨勝海舟は時の政府から、「東京奠都三十年祭」を遂行するための実行委員就任を要請されたが、『自分の任ではない。』として断った。 其のときの海舟自身の維新30年に寄せる思いを氷川清話に残している。 ..
-
大迫貞清~勝海舟は『氷川清話』で大量寛宏の男と評した勝海舟は『氷川清話』で、大迫を次のように誉めている。 「維新後の静岡県は、旧幕のものが沢山移住して居たところだから、尋常の人では治め難い云々、、大久保(利通)は不承知のようだったが、大迫が適任だと思..
-
牧野伸顕~大久保利通の次男。オールドリベラリスト。牧野伸顕(まきののぶあき)は、文久元年(1861)10月、大久保利通の次男として鹿児島に生まれる。幼名は伸熊。 明治4年(1871)、父利通の希望で上京した伸熊は同年7月遣欧使節一行に同行してアメ..
-
高崎正風~後に初代御歌所長を勤めて明治天皇の歌を点した。高崎正風は天保7年(1836)7月、薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男に生まれる。母は登米子(新納常善女)。 嘉永2年(1849)、お由羅騒動によって父五郎右衛門が切腹し、翌嘉永3年、正風も連座して..
-
川村純義~いとこの西郷隆盛に実弟のように可愛がられた川村純義は天保7年(1836)薩摩藩士川村与十郎の長男に生まれる。通称は与十郎。妻春子は椎原国幹の娘。国幹の妹・満左子は西郷隆盛の母であり,川村は隆盛に実弟のように可愛がられた。 安政2年(185..