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猪間驥一」 の検索結果 253 記事
【2014年5月18日】  その数日後、私は思いあぐねて、『猪間驥一評伝』の書評を書いてくださった先生にお礼のメールを出すとき、IS教授の「和田みき子氏博士論文への注文」を読んでいただくことにしまし..
【2014年4月29日】  この「注文」に対して、私は教授に直接会う機会があって反論をしています。その反論をメモとして残しておいたものが以下のファイルです。  IS教授「博士論文への注文」への疑問..
【2014年4月18日】  2012年度の秋以降に起きた出来事を考えようとすると、今でも悪夢の中にいるような錯覚に陥ります。一つらなりの出来事としてとらえることが難しく、書く作業は何度も中断されます..
【2012年11月14日】  最初に提出した博論に対するコメント。とりあえずそのまま掲載します。 *初稿に対するコメントとリライト要求の方針案 1.従来の日本近代政治経済史研究、ならびに日本近代..
【2012年4月26日】  私が最初に博士論文の草案を提出したときの返信メールです。このときはまだ、指導教授がマルクス主義的歴史観のもち主であることに気づいていませんでした。 和田様 ざっと..
 いくつかのことをご報告します。  1.以下のタイトルで博士論文を提出し、学位をいただきました。 自由主義経済学者、猪間驥一の人口問題研究およびその近代史認識 ――1920~1940年代の考察―..
 猪間驥一は、国際連盟事務局東京支局の諮問機関、国際連盟経済調査委員会の7人のメンバーの一人だったんですね。  この3月で研究にひとまず区切りをつけて、日本外交とくに戦前の外交を勉強したいと思ってい..
 今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。   以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して..
 大内兵衛の書いた「糸井君を憶う」に関して気になっていることは、大内が、終戦直後に上梓した『旧師旧友』(岩波書店、1948年)に、「彼のこと――糸井君を憶う――」として収録したこの追悼文は、内容は同じ..
 猪間の「糸井先生の思出」にある『経友』は、どのような誌面に仕上がっていたのか、今回はそのことについて書きます。  「『経友』の雑誌委員として、先生と私はいつも一所だった」のは、第2号の編集のときで..
 有沢広巳が『経友』第6号に発表した「糸井先生と私」という追悼文は、基本的には、糸井靖之のどこかに憂鬱の影がつきまとっていたことに自分だけが気づいていたこと、その憂鬱は、森戸事件に際して現れたような、..
 最後の第6号のことから先に書きます。  冒頭に大内兵衛の撮影になる故糸井靖之の写真が掲げられています。1923年8月とありますから、大内が糸井と別れる直前のものだということがわかります。  『経..
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