記事「編集」 の 検索結果 1364 件
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YoutubeやSNSの動画編集は怖いな・・と思ったお話。このご時世、緊急事態宣言下、しかも変異株全盛期の大阪から日本一周キャンプ旅といって 動画投稿されている方がいるのですが、昨年もコロナ下でもされていたので2周目ですね。 1周目はね、コロナで..
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気持ちが腐ります単純作業でなくても、同じような仕事をすると、気持ちが萎えます。 終わりをみては、まだこんなにあると思うのでした。 未だこれだけと、未だこんなに。 同じ分量でも、考え方に違いが生じます..
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やり過ぎでしょうネ?売れ残りDVDを購入しました。 ターミネーター4です。 今更どうしたと聞かないで下さい。 何となく欲しくなったのです。 新品で\490円。 買うでしょう、中年世代には魅力のタイトルですから。..
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□12:野ばら社『児童年鑑』とはどんな本だったかというと…ページ数はわからないが、厚さは5センチくらいあった。判型も当時はそんなこと知りもしないが、おそらくB6判くらいだった。表紙はすでにビニールがあったかどうかも不明だが、光沢が少しある空色で、題字が箔押..
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□11:バスに乗って広島の町へ行き初めて買ってもらった「本」があった青崎小学校は広島市の東のはずれにあるが、でんでんむしの住んでいたところは安芸郡府中町で、学区からいうと異なる。当時は、府中町には小学校はひとつしかなく、府中町のはずれからはそこへはとても通えない。そ..
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□10:教室で作文を先生にほめられて一生の道が決まるということはないにしても…当時、小学校で「綴り方」といっていたのか、それとも「作文」といっていたのか、それもよくわからない。『綴り方教室』という映画もあったような気もするが、そのこととも直接関係ない。 小学校の4、5年生の頃..
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□09:広島のそろばん塾と国道二号線のローマ字と青小の開かずの図書室当時の小学校の授業で、何を学び、どんな成績だったのか、よく覚えていない。きっと、そんなに目立つこどもではなかったし、そんなに成績がいいというほどでもなかったのだろう。 小学校の6年間は、とにかく遊ぶ..
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□08:独特の雰囲気があった『譚海』もたまにみるくらいだったが…戦後の雑誌ブームというのは、今ではよほどの研究家でなければ、その全貌を知ることができないくらい複雑である。こども向けの雑誌でも、それは同じことで、とにかくいろんな雑誌が出たり消えたりしていたが、その..
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□07:『のらくろ』と貸本屋で借りたマンガ以外の本『ヒキガエルの冒険』田河水泡の『のらくろ』の記憶も重要だった。なにしろ、一時期はチャンバラまで禁止されたのだから、犬に擬人化されているとはいえ、もろ旧日本軍そのものの『のらくろ』も、おおっぴらに店先に並んでいたわけでは..
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□06:戦後のベストセラー第一号と“本といえば貸本屋”という時代のことその頃は、本を買うという発想もお金も、まだなかった。本をたくさん並べた本屋というものがまず身近にないだけでなく、こどもが小遣いで買うような本もまた存在していなかったのだ。 もちろんそれは、戦後の広島..
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□05:本とはおよそ縁がない暮らしで付録が楽しみだった雑誌は盆と正月くらい原爆で家を焼かれたので、府中町のこども時代は、本というものとはおよそ縁がない暮らしだった。考えてみれば、妻を失い、家財も何も一挙に失ってしまって、食べるのがやっとという生活を余儀なくされ、おまけに遠..
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□04:スミ塗りこそしなかったが教科書は「本」にはなっていなかった本との出会いで、よく語られるのが“教科書”である。これは、家に本があってもなくても、本が好きでも嫌いでも、誰でも公平に経験する本との遭遇である。 教科書が本といえるのかどうか、そんな屁理屈はどうでも..