記事「てんしょういんあつひめ」 の 検索結果 14 件
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和宮(かずのみや)_04天皇の仲立ちで和宮(堀北真希)皇女と熾仁(たるひと)親王との間に婚約が取り決められたとき、和宮(堀北真希)は6歳、親王は17歳だった。早婚の当時としてはそろそろ配偶者を迎えてもおかしく親王だったが、6..
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和宮(かずのみや)_03和宮(堀北真希)にはひとりの姉と、ひとりの兄が残っていた。だが、姉敏宮(ときのみや)は生母が異なり、27歳も年上ということもあり、親しみにくかった。兄の統仁(おさひと/東儀秀樹)宮は父の跡を継いで即位..
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和宮(かずのみや)_02古代からの宮中のしきたりとして、皇女は懐妊すると実家へ戻って出産する。産の血の穢れを忌み嫌ったためだ。典侍(ないしのすけ)橋本経子(つねこ/若村麻由美)も父の権大納言橋本実久(さねひさ)邸で出産した。..
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和宮(かずのみや)_01和宮(堀北真希)は弘化3 (1846)年、仁孝(にんこう)天皇の皇女として生まれた。母は天皇の妃の一人、典侍(ないしのすけ/すけ/てんじ)橋本経子(つねこ/若村麻由美)で、のち仏間に入って観行院(かん..
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篤姫(あつひめ)__10しかし、篤姫(あつひめ/宮崎あおい)が嫁いで2年足らずの安政5(1858)年、35歳の若さで家定(いえさだ/堺 雅人)が病死。篤姫(あつひめ/宮崎あおい)が未亡人になるのと、大きな支えの斉彬(なりあき..
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篤姫(あつひめ)__09つまり斉彬(なりあきら/高橋英樹)は密偵西郷(小澤征悦)を使い、こちら側の意を伝えると同時に、幾島(松阪慶子)からの情報で幕閣や大奥の動向を知ることができた。そのほかにも、藤野、園川などの老女を相談役..
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篤姫(あつひめ)__08さて、大奥での篤姫(あつひめ/宮崎あおい)を、陰になり日向になりながら助けてきた女たちの存在もあった。まず、近衛家からお付女中として大奥につき従った、老女の幾島(松阪慶子)がいる。幾島(松阪慶子)は斉..
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篤姫(あつひめ)__07これは「血統か聡明さか」の争いといわれ、あくまでも血統を重んじる将軍側近や幕臣などは、大老井伊直弼(いいなおすけ/中村梅雀)の下に結束し、当時12歳の徳川慶福(よしとみ/松田翔太)を推した。 ま..
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篤姫(あつひめ)__06この中からまず血統、年齢、そして人物、最後に力量が厳密に比較検討された結果、紀伊藩の慶福(よしとみ/松田翔太)と一橋家の慶喜(よしのぶ/平 岳大)の二人にしぼられた。 このため慶福(よしとみ/松..
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篤姫(あつひめ)__05正室の奥泊りも年に1、2度に過ぎなかったという。このため家定(いえさだ/堺 雅人)についてはついにひとりの子もなく、将来ともその望みは持てなかった。加えての虚弱さのため、激動する幕末の非常時に対処する..
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篤姫(あつひめ)__04家慶(いえよし/斉木しげる)が死んだとき、家定(いえさだ/堺 雅人)はすでに30代だった。家定(いえさだ/堺 雅人)は幼年時疱瘡にかかったため、醜いあばたの容貌をしていた。そのうえ癇癪が強く、いつも首..
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篤姫(あつひめ)_02ひかえめに受け答えをする於哲(吉高由里子)に対し、於一(おかつ/宮崎あおい)は持ち前の勝気な気性をのぞかせ、ものおじせず応答した。ここで、於一(おかつ/宮崎あおい)を薩摩藩主島津斉彬(高橋英樹)の養女..
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