記事「ダダイズム」 の 検索結果 101 件
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中也の青春 5 「痴人の愛」ナオミ(承前)「上海での永住」という望みを持っていた富永太郎だが、それはならず、二カ月ばかりの滞在で帰国、一端は自宅へ戻ったが、旧制第二高等学校の同級生である正岡忠三郎の下宿先に富永がやってくるのは1924..
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16 何になろうか(承前) 中原の父親・謙助には軍医の経歴があり、その任地の一つが金沢だった。彼の年譜によれば謙助は明治四十五年九月に着任しており、それから、ほぼ一年半を金沢で生活していた。中也は京都に出る直前、次の..
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14 答案に創作詩(承前)中也は強運の人、幸運の持ち主だったのかなぁ、と思うことがある。次から次へと彼の周囲には好意的な人たちが吸い寄せられるように集まり、中原は、その中心付近に居て台風の目のような存在になってゆく。 ..
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13 ダダの手帖(承前)高橋新吉の詩集にちりばめられた作品は、中也の詩心を燃え上がらせた。中也の試作を語る文章で頻繁に引用されるダダ詩は、彼が友人の評論家・河上徹太郎(1902~1980)に預けていたノートに書かれて..
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12 運命の出会い(承前)中也の弟、中原思郎さんの回想によれば、 最初の帰省は立命館時代の夏休みであったように思う。(中略) 京都の中学時代は春・夏・冬の休みごとに必ず帰った。 落第せず四年修了したから、学校..
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10 ダダの詩集(承前) 高橋新吉はアルバイトで生活費を稼ぎながら書き溜めた詩作品を謄写版の冊子にして持ち歩き、出来れば出版したいと考えていた。その希望は大正12年(1923)2月に叶う事となる。『ダダイスト新吉の..
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9 発狂事件(承前)時間を少し遡り、中也の生活空間から外れます。 詩人で小説も書いた高橋新吉(1901から1987)は中原より六つ年長で、詩人の富永太郎と同じ年に生まれている。地元愛媛県の学校を出てすぐ、文学の..
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中原中也とダダイズム 83 最終回(承前) ダダ詩の絶対による表現の過程で中原は、名辞以前のイメージ世界、認識以前の世界を表出することによって、言葉による表現の相対性を乗り越えられると考えていた。 神の絶対はダダの絶対と対峙し..
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中原中也とダダイズム 82 孤独(承前) ノート最終の詩『冬と孤独と』は、未来に不安と期待を同時に抱いた中原の、やや落ち着きのない視線が感じられる。 新聞紙の焦げる匂ひ 黒い雪と火事の半鐘 私が..
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中原中也とダダイズム 81 私は悲嘆者(承前) 教養ある年上の詩人富永太郎に対し、中原はダダイズムの絶対の理論で対抗しようとしていたのであろうが、この期間にダダ詩が書かれていない事実は、中原がダダ詩そのものに対する評価を既に変えて..
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中原中也とダダイズム 80 矛盾の存在(承前) 44番詩の内容も、ダダ的な色彩が濃いが、彼の内部には、 物識りになつたダダイスト という反省も生まれており、自己の思惟、創作が十分な必然性を持たずに行なわれてきていた..
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中原中也とダダイズム 79 この世の果て(承前) 彼は「闇の中」の「鏡」と対峙することを避けるように現実生活の場へ立ち返り、「恋」を持ち出してくる。「一切が悲哀だつた」の表現『ゆきてかへらぬ』の、 僕は此の世の果て..
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