記事「主イエスのたとえ話」 の 検索結果 9 件
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神の子どもたち(ルカ15章11-32節)ヘンリ・ナウエンという人は、レンブラントの絵の中の4人の傍観者と自分を重ねあわせます。 この父と弟に、神さまと神さまのもとに帰ってきた一人の人との間の交流に、 全く関心をいだかない。そういう生..
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大きな喜びが天にある(ルカ15章1-10節)罪人に対して、神さまの喜びがある。 理解しようとする人には理解できるのですが、ファリサイ派の人々、律法学者たちには理解できなかったのだと言うのです。 彼らにとっては、神さまの喜びは、ただ正..
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主イエスについて行く(ルカ14章25-35節)古くから--いや今もそうだと思うのですが--この私自身、からだも心も含めたすべてが、神の位置につくことがあるのです。神さまにかわって、この私自身が、この私にとっての神さまになってしまう。少なくとも神さ..
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信仰のみのり(ルカ13章1-9節)K・ヘッセという人が次のように記しています。破壊された村々、奪われた人々のいのち、難民たちのみじめさ。故郷を失った人々。飢え、凍え。それは何かのしるしではないのか?私どもへの何かのメッセージではないの..
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目を覚ましていること(ルカ12章35-48節)いつ帰ってくるかわからなかった、突然帰って来た主人がいる。主人も旅支度のはずです。旅から帰ってきたばかりなのです。ところが、その帰ってきた主人が、主人の帰りを待っていた他ならぬ僕たちをもてなしてくれる..
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もう思い悩まないでよい(ルカ12章13-34節)「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」 でも神さまはこんな「私」に「愚か者よ」とおっしゃるのです。 そこでこの金持ちは死んでしまっ..
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お前のあの弟は死んでいたのに生き返った(ルカ15章11-32節)すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜..
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隣人を自分のように愛しなさい(ルカ10章25-37節)この「しかし」がポイントなのです。この「しかし」のゆえに、イエス様は「善きサマリア人のたとえ」をお話になったのです。何が「しかし」なのか。この律法の専門家は「自分を正当化しよう」としたのです。自分を正..
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信仰があなたを救った(ルカ7章36-50節)「敬虔な人は境界線を引いて、神さまに重んじてもらうことを願っている。そしてもしその境界線が侵されたら、文句を言うのである(H・ゴルヴィツァー)。」 こういうことであると思います。敬虔な人は自分で..
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