記事「侠客」 の 検索結果 24 件
-
木枯し紋次郎笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。 「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りまし..
-
国定忠次と有名な侠客たち大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。 「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津..
-
国定忠次の仕置場国定忠次が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。 嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠次は磔(はりつけ)刑に処せられました..
-
博奕打ちの世界博奕打ちの一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居、そして、三下奴(さんしたやっこ)の身分がありました。 親分は貸元(かしもと)とも呼ばれ、縄張りを持って一家を張ります。 子分には親分と直々..
-
関東取締出役と道案内八州廻りとか八州様とか呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)が設置されたのは文化2年(1805年)6月の事です。 関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、..
-
保泉の久次郎国定忠治の子分、保泉の久次郎は上州保泉村(群馬県伊勢崎市)の農家の次男に生まれます。 15歳の頃、百々(どうどう)一家の三下奴(さんしたやっこ)になって、17歳の頃、子分に取り立てられます。久次郎が..
-
国定忠治の子分たち忠治の子分で有名なのは、「赤城の子守唄」に出て来る板割りの浅太郎がいますが、実際の名は浅次郎です。板割りという名は父親がこけら葺きの屋根に敷く板作りの職人だったからと伝えられています。下植木村の浅次郎..
-
弁天のおりん日光の円蔵の妻は女壷振り師で、通り名を弁天のおりんといいます。 そのいわれは博奕打ちに成り立ての若い頃、勝負に負けてオケラになってしまい、悔しくて帰る事もできず、襦袢姿になって着物を賭けました。それ..
-
日光の円蔵国定一家で軍師と呼ばれた日光の円蔵は野州(栃木県)都賀郡の落合村に生まれました。幼い頃より寺に入れられますが、17歳の頃、寺を飛び出して、野州無宿の日光の円蔵を名乗って旅に出ます。寺にいた時の名前が、..
-
島村の伊三郎国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。 船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝え..
-
大前田栄五郎本名は田島栄五郎です。一般に大前田村の栄五郎で通っていますが、大前田一家の親分ではありません。大前田一家は兄の要吉が継いでいたので、栄五郎は旅で男を売って名を上げました。名古屋から伊豆にかけて東海地方..
-
国定忠治石川五右衛門と同じように見せしめの処刑にあったのが国定忠治です。 国定忠治とは国定村の忠次郎の略で、本名は長岡忠次郎といいます。 先祖は新田義貞の家臣だったらしく、代々長岡姓を持っていました。身分..
- 前へ
- 次へ