記事「内海丁三」 の 検索結果 8 件
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『経友』から新たな事実4猪間の「糸井先生の思出」にある『経友』は、どのような誌面に仕上がっていたのか、今回はそのことについて書きます。 「『経友』の雑誌委員として、先生と私はいつも一所だった」のは、第2号の編集のときで..
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内海丁三、石橋湛山との日々(追記)『大蔵省百年史』別巻を調べたら、櫛田光男の名前が出ていました。それによると、 1946年2月2日、大蔵省に理財局が再置され(1945年5月19日に廃止されていた)、櫛田光男が局長に就任する。 1..
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内海丁三、石橋湛山との日々『名峰湛山:石橋書簡のあとさき』(1957年)に収録された内海丁三の「石橋さんという人」を読みました。 一 私が石橋さんにお近づきを得たのは、昭和五年の金解禁の前だったか後だったか、とにかく..
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「猪間、しっかりしろよ!」最近、ウーラント同窓会の方にお目にかかって、かつて猪間驥一が「渡し場にて」という「詩(うた)」さがしの過程で広げていった交流の輪についてご教示いただきました。この会の興味深い活動については以下のサイ..
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猪間驥一の何がすごいのか3●猪間驥一の関わった人々(戦後1950年代まで) 【大蔵省・在外財産調査会】 石橋湛山:在外財産調査会設立時、第一次吉田内閣の大蔵大臣。編纂の途中で公職追放になる。なお猪間は、1950年、東洋経済..
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猪間驥一の何がすごいのか2猪間驥一の業績をまとめたついでに、戦前・戦後にわけて猪間の関わった人々について、メモしてみました。それぞれ有名な人々ですが、それはWikipedia等でチェックしていただくとして、ここでは、あくまでも..
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猪間驥一評伝抄・第1章第1章「猪間驥一の生い立ち」 1.幼年時代と家族 ●猪間驥一は、1896年9月15日、京都の綾部に生れる。 ●父親は、地学者の猪間収三郎。東京物理学校に学び、正則予備校で博物学を教えた後、地学協..
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家族が語る猪間驥一5というわけで、東大ではあまりいい人間関係に恵まれなかった猪間が、生涯大事にしていたのが、一高時代の友人たち。寮生活で育まれた交友が一生の財産になったようで、彼は、大四会(大正4年入学)と呼ばれる同窓会..
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