記事「土方成美」 の 検索結果 21 件
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土方成美ゼミ生たちの受難前回同様、土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)からの引用です。土方ゼミとはいっても、厳密にはゼミ生ではなく、ゼミに出入りしていた北山冨久二郎の話が中心になります(引用文中にもあ..
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猪間驥一の助教授昇格問題今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。 以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して..
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『経友』から新たな事実2最後の第6号のことから先に書きます。 冒頭に大内兵衛の撮影になる故糸井靖之の写真が掲げられています。1923年8月とありますから、大内が糸井と別れる直前のものだということがわかります。 『経..
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『経友』から新たな事実1◆近況のご報告 先月末、博士論文を書いて提出するところまで行きました(受持ちの先生には提出の方法を教えてもらえないし、事務室では自分たちには教えられないといわれるし、これはこれでたいへんでした)。..
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転向していた、鈴木武雄2よく考えてみれば、「湛山の公職追放と共産党」(2015年7月18日)で述べた、『真相』の記事「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」中の、「昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、..
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猪間驥一と森戸事件の真実③森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』を読めば読むほど、森戸への疑問がわいてきますので、ほんとうはここまで範囲を広げたくないのですが、思いきって書いておきます。 私が一番ひっかかっ..
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猪間驥一の東大追放・補2大内兵衛『私の履歴書』(1951年)では、第7章に当たる「ヨーロッパ留学」の後が、「再び教壇に」となっており、1923年9月、関東大震災で帰国した後の東京帝国大学経済学部のようすがつづられています。..
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北山冨久二郎の台北時代『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論の「序」には、その編纂に関わった編集委員、猪間驥一、鈴木武雄、北山冨久二郎、金子滋男の4名の署名があります。 このうち猪間驥一に関しては、背後に大蔵大臣..
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鈴木武雄の二股について前回記事の、鈴木武雄が二股をかけていたことについて、あるいはそのキャラクターについて、少し補足しておきたいと思います。とはいっても、すでに述べていることを整理するだけです。 ①東京帝国大学経済学部大..
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猪間驥一の何がすごいのか2猪間驥一の業績をまとめたついでに、戦前・戦後にわけて猪間の関わった人々について、メモしてみました。それぞれ有名な人々ですが、それはWikipedia等でチェックしていただくとして、ここでは、あくまでも..
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猪間の東大追放まで・追記4『東京大学経済学部五十年史』は館外持ち出し禁止なので、本日また大学の図書館で少し読んできました。 この第3部の座談会、(5)大正時代の経済学界と東大の地位、(6)関東大震災とその前後の経済学部、で猪..
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猪間の東大追放まで・追記3今回は、『河合栄治郎全集』第22巻〈日記〉の中で、猪間驥一に関連した部分を取り上げます。 【1921年】 11月20日 夜猪間(驥一)氏待つ、その話の最中に、先生はビジネッスマンである、と言う批..
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