記事「大河内正敏」 の 検索結果 11 件
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「果して帝国主義戦争か」石橋湛山が、日本が国際連盟からの脱退を声明した直後する直前に書いた「社説」に、びっくりさせられるものがありました。「果して帝国主義戦争か」(1933年3月4日号)というのがそれです。 日支紛争、..
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猪間驥一の地方財政研究⑦A.猪間驥一「地方財税制改革案要綱の数字的検討」 (『都市問題』1936年11月号・「地方財税制改革案の検討」特集) B.猪間驥一「地方税制改革案の意味と影響」 (『東洋経済新報』1936年..
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上田も農村工業協会に参加!本日、調べものをするために一橋大学の図書館へ行ったのですが、復刻版の『一橋新聞』を読んでいて面白い記事を見つけました。 救済策を掲げ 農村工業協会生る 上田(貞)教授も参加 農村問題が熾辣..
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寄り道:高橋財政期の湛山11930年代の湛山の活動を知ろうと、『石橋湛山全集』第9巻、『東洋経済新報』復刻版から座談会、同じく復刻版から政府要人のインタビューと読み重ねて行くうちに、改めて、湛山のもっていた広範にわたるネット..
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鈴木武雄についての小論文どうしてもお返事したいお手紙を何通もいただいているのですが、来年の冬休み明けまでに書き上げなければならない小論文があります。 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』のもう一人の編集委員であるマル..
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人口の都市移住と農村工業昨日の石橋湛山の小論「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)は、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)と湛山が推奨する「農村工業計画」とが矛盾するものではないことを示すため..
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リフレ政策が可能にしたものたまたま読んでいたものに、石橋湛山の「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)があったのですが、その出だしのところにこう書かれています。 昭和六年十二月..
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30年代の農村工業化論争2農民運動家、中澤弁次郎の主張は、木村靖二のそれとはやや異なっています。1935年に書かれた「都市工業の地方分散と農村工業」は、日本経済の分析から書き起こされています。 都市工業の地方分散化と農村の工..
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30年代の農村工業化論争1猪間驥一の「第六十七議会に於ける都市及び地方問題」(1935年)は、直接、農村工業化の問題を論じたものではありませんが、これを読むと、1934-35年頃、農村と都市の対立という形で意識された論争が展開..
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上田貞次郎の大河内批判上田貞次郎の「アウタルキーは断じて日本が取るべき道ではない」ということば(大意)は、猪間研究の初期の頃から耳に焼きついてはなれませんでした。 大河内正敏の農村工業について調べ始めたとき、そのことばが..
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大河内正敏の農村工業計画博論の第2部では、鈴木武雄の植民地、朝鮮における活動といわゆる「大陸前進兵站基地構想」についてまとめた1章を設けようと思って、現在その作業中です。 鈴木の『朝鮮の経済』(1942年)には、「大河内博..
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