記事「山崎の戦」 の 検索結果 7 件
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勝竜寺城現在の京都府長岡市に南北朝時代から江戸時代初期に存在していた城。明智光秀の三女、玉が細川忠興に輿入れをした城であり、また、山崎の合戦では明智光秀が本拠とした城として知られています。
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山崎合戦古戦場碑本能寺の変のあと、天正10年(1582年)6月13日に、羽柴秀吉軍と明智光秀軍が摂津国と山城国の境に位置する山崎を舞台に戦ったのが山崎の戦い。大山崎町立大山崎中学校の正門横に石碑が建てられています。
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山崎合戦之地碑天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の直後の6月13日、備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が、摂津国と山城国の境に位置する山崎において激突したのが山崎の戦..
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天王山京都府乙訓郡大山崎町にある山で、山崎天王社があることが山名の由来。天正10年(1582年)6月の、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いで、この山の争奪戦が起こり、「天下分け目の天王山」と表現されました..
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宝積寺京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派のお寺。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際には秀吉の本陣が置かれ、また、元治元年(1864年)には、禁門の変で尊皇攘夷派の陣地が置かれた所です。..
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秀吉・家康に阻まれ天下を狙えなかった織田信雄~織田信長の子としての苦悩の人生つい最近のことですが、1582年の本能寺の変後に、織田信雄が羽柴秀吉に宛てた書状が見つかったという発表が中京大から出されました 書状には、「(周辺から)秀吉の近くに陣を移そうとしたが、適切な..
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11/16国盗り合戦の問題11/16国盗り合戦の問題: 「三日天下」と呼ばれた 明智光秀の天下。実際に、 本能寺の変が起こってから 山崎の戦いで光秀が敗れる ..
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