記事「戊辰戦争」 の 検索結果 566 件
-
八重の桜ドラマ 八重の桜で江戸時代が終わった。 戊辰戦争も終わった。 新しい時代、明治へと。 八重のセリフ、「憎しみを抱えたままでは前には進めない」 なんだかズンときましたね。 ..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(40)◇日向ゆき(中) 新太郎はやむなく、尻もちをついたまま射撃を続けたが、間もなく肩を射抜かれて銃を持つこともできなくなった。 「無念じゃ」部下に命じて介錯を求めたが、敵兵に囲まれてそれもで..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(39)◇日向ゆき(上) 日向左衛門(400石)の次女。8人兄弟の3番目として生まれた。32歳で死去した母の兄は飯沼時衛で、その次男が白虎隊士中2番隊の生存者貞吉。母の姉が西郷頼母夫人の千恵子。 ..
-
閑話◇会津武士道に生きた伴百悦 歴史春秋社は、「会津武士道に生きた 伴百悦」を出版した。薩長兵の命令で、戊辰戦争後、会津藩士の遺体は路上に放置され、カラスや野犬に食いちぎられて無残な姿のままであ..
-
戊辰戦争戊辰戦争は悲しい戦いだったと思います。 こういう戦いに関しては、 どっちが正しいとかは あまり意味がないことだと思います。 両方に言い分があり、 どうにもならない時に起こる戦争もある..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(36)◇神保雪(中) 西軍は、六日町郭門を突破して西下したため、丘隅らは退路を絶たれる形になった。丘隅の屋敷は、甲賀町郭門から100間(180メートル)ばかりの所にあり、丘隅は退路を切り開いて屋敷..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(35)◇神保雪(上) 600石、井上丘隅の三女で、家老神保修理に嫁いだ。修理は非戦論を唱え、恭順派として藩論の統一に努力していた。 しかし、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れたの..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(34)◇柴家の女たち(下) 五男五郎(後に会津人初の陸軍大将)は事前に 下男の家に避難させていたので、無事だった。母ふじは、柴家の家名継続を五郎に委ねたのであろう。送り出した後、女性5人はことごと..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(33)◇柴家の女たち(上) 集団自刃は西郷家だけではなく、郭内にあった武家屋敷では、「城中に上がれば足手まといになる」「穀潰しになるだけ」と次々に自刃した。そのうちの柴家を紹介する。 当主佐多..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(32)◇西郷家の女たち(3) 自刃した21人は、会津若松市門田町御山の善龍寺の「二十一人塚」に納められている。本堂脇には、千恵子の辞世の句からとった「奈与竹の碑」があり、墓参の人が絶えない。毎年5..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(31)西郷家の女たち(2) 女たちは従容として死につく。懐剣で己の首を斬り、幼子は、その首に懐剣を射して次々、倒れていった。しかし、長女細布子は死にきれず、呻いていた。 城下へ侵入した土佐藩の..
-
幕末維新に燃えた会津の女たち(30)◇西郷家の女たち(1) 8月23日早朝、会津城下に迫った西軍の侵攻は予想外に早かったため、城下は混乱した。大手門前の家老、西郷頼母邸では、夫や長男を鶴ヶ城へ送り出した後、死出の準備に入った。..