記事「景行天皇」 の 検索結果 79 件
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隅田鏡と忍坂宮 5(承前) 五十瓊敷入彦命は、次男の大足彦尊(オオタラシヒコ、景行天皇)と共に、垂仁三十年正月、天皇から『汝等、各、情願しき物を言せ』と尋ねられた時『弓矢を得んと欲ふ』と答え、天皇から「弓矢」を賜っ..
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鏡とピンク石 3 阿蘇の石への憧れ(承前) この事実だけをもって三つの地域の実力者たちが「同盟」して大和政権を運営していたと決めつけるのは早計ですが、帝室と吉備氏とのつながりは大和朝の初期から顕著であり、景行天皇と稲日大郎女の婚姻..
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阿蘇ピンク石 6 石の証明(承前) 「古事記伝」で知られる国学の大家、本居宣長は、その神櫛王について興味ある解釈を残しています。第二十九に含まれる「讃留霊王」にまつわる文章なのですが、大意を訳すと、 讃岐国鵜足郡に祠が..
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阿蘇ピンク石 5 複雑な系譜改編(承前) 日本書紀は「景行五十八年春二月」に近江へ行幸した帝はそのまま三年住み続けたと記録し、これを滋賀高穴穂宮としたらしいのですが、兵主側の伝承の背景には『景行帝の頃、稲背入彦皇子が大いに武威を..
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阿蘇ピンク石 4 兵主大社の伝承(承前) ただ稲背入彦王についても古事記は何も語らず謎の人物というしかありませんが、唯一の手がかりになりそうなものが、垂仁天皇の系譜段にある、 また旦波比古多多須美知宇斯王の娘、氷羽州比売命..
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阿蘇ピンク石 2 彦人大兄王とは(承前) つまり九州に地盤のあった阿蘇氏や敷桁彦命を祖先に持つ多氏、更には大分国造や火国造などを輩出した健緒組命とも「同祖」だと主張している訳ですが、新撰姓氏録には、これとは別にもう一家、興味深い..
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石上神宮と吉備 5 稲背入彦命の実体(承前) 彼(仁徳天皇)の父親である応神天皇は、先帝の遺児を支持する勢力を実力で排除して新たな王朝を築き上げたのですが、その出自については不明な部分も残されています。只、はっきりしているのは応神が..
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スサノオとツノゴリ 3 天孫族の祖(承前) 鍛冶集団自体の国内移動については泉南市の北部に当たる柏原市大県(5世紀頃の製鉄遺跡がある)に天湯川田神社が建ち、更に、その直ぐ北にも「垂仁皇子」鐸石別命(ヌデシワケ)を祭神とする鐸日子鐸..
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スサノオとツノゴリ 2 皇子と製鉄(承前) 第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷(敦賀郡)の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、 その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が 和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の..
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スサノオとツノゴリ 1石山本願寺との長い闘いの最中にあった織田信長(1534~1582)は、天正五年(1577)三月二日、多数の武将を従え和泉国まで南下します。寺方を豊富な戦力(鉄砲)で支え続けてきた紀州の武装勢力雑..
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河上部と鏡作り 1 鍛治師たち雄略天皇が即位二年目の冬十月に「史戸、河上舎人部を置いた」と日本書紀が記録しています。伝記の冒頭で『はなはだ悪しくまします天皇なり』と酷評された大王が、とても寵愛したのが渡来系の「史部の身狭村主..
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大王が希求する物 3 機動力(承前) また筆者は、この皇子が崇神天皇の名前(御間城入彦五十瓊殖)の一部を継承している点を重視して、彼は垂仁天皇の皇子ではなく崇神天皇の子供で、かつ垂仁の兄弟だったと考えています。つまり「五十瓊..