記事「有沢広巳」 の 検索結果 44 件
-
有沢広巳の騙しのテクニック今回は、その有沢広巳の騙しのテクニックについて。 まず最初に、糸井靖之が亡くなった後(つまり、猪間を東大から追放した後)、なぜ猪間でなく、自分が統計学講座を引き受けたのかを説明しなければならない..
-
猪間驥一と森戸事件の真実⑤先日、猪間驥一の森戸事件に関連する資料を見ていたら、有沢広巳の『学問と思想と人生と』(毎日新聞社、1957年)が紛れ込んでいて、私がコピーを取った「糸井靖之」の前の項が、「森戸事件」であることがわか..
-
戦争証言アーカイブス①「NHK戦争証言アーカイブス」というサイトがあって、日本映画社が制作した日本ニュース(映画館にて上映)の1940年から1948年までのものをネットで見ることができます(戦前戦中のものを別にすると、G..
-
大内兵衛グループの犯罪史2やっぱりもう少し書いておきます。 前回書いたのは、大内兵衛グループのうちの、いわば大内・有沢コンビによる、石橋湛山の排除を目的とした吉田茂を利用した策略といっていいものだと思うのですが、今回付け..
-
大内兵衛グループの犯罪史増田弘さんの石橋湛山の公職追放関連の本を何冊か読んで、この追放に共産党が関わっていること、また有沢広巳の言動が、大きな役割を果たしていた可能性があることを知りました。これに私が調べていたことを重ねあ..
-
経済図表の見方画き方・・・34つの記事とともに、『経済図表の見方画き方使ひ方』の広告にも面白い発見がありました。見たのは1926年のものだけですが・・・。 ◎3月27日号/4月10日号・・・A:対数方眼紙の「形見本」 ◎4..
-
森戸事件と猪間驥一の意思1919年9月、猪間驥一(いのまきいち)は東京帝国大学に新設された経済学部の第一回生として入学しますが、翌1920年の初頭、森戸事件に遭遇します。 まさか彼がこの事件に深く関わっていたとは思わな..
-
寄り道:高橋財政期の湛山3「2.座談会」に入ろうとして、その合間に1934年の『東洋経済新報』を読んでいて、「まさか!」の発見をしました。うれしい発見です。 まず、1934年2月10日号に、次のような告知がなされていて「..
-
猪間驥一の東大追放・補3有沢広巳の『学問と思想と人間と』(1957年、毎日新聞社)では、病気(1922年7月、発病)で助手を辞めたことになっていた「猪間君」ですが、前回の大内兵衛『私の履歴書』(1951年、黄土社書店)では..
-
猪間驥一の東大追放・補2大内兵衛『私の履歴書』(1951年)では、第7章に当たる「ヨーロッパ留学」の後が、「再び教壇に」となっており、1923年9月、関東大震災で帰国した後の東京帝国大学経済学部のようすがつづられています。..
-
猪間驥一の東大追放・補1昨日は、勤務の後に出かけた一橋大学図書館で、思いがけずたくさんの収穫がありました。 一つは、猪間驥一の東大追放に関するもの。もう一つは、猪間の新たに見つかった何編かの論文。さらには、「北山冨久二..
-
有沢・大森とレーデラー教授近代デジタルライブラリーを見ていて出てきたものに、有沢広巳・大森義太郎共訳による、エミール・レーデラー『理論経済学概説』がありました。ここで取り上げるほどのものではないのですが、有沢が猪間驥一を東京帝..