記事「東洲斎写楽」 の 検索結果 77 件
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小説・写楽 4 きついお咎めの後(承前) 芝居小屋を度重なる火事騒ぎで焼失、その都度金主・地主の間を飛びまわり、米搗きバッタのように拝み倒して資金繰りに目処をつける毎日だった。今回も小屋の再建になんとか目鼻を付け、主だった役者連..
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小説・写楽 3 伝内の頼み事(承前) 松飾も取れ、そろそろお屠蘇気分も抜けようかという寛政6年正月の下旬、都座の伝内達が行きつけの小料理屋・二階に設けられた宴席に蔦屋重三郎と山東京伝が揃って顔を見せている。朝方からちらほらと..
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小説・写楽 2(承前) ここから管理人の独り勝手な思い込みが始まり、この礒田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい)が東洲斎写楽である可能性について考えてみたのです。まず、湖龍斎という絵師が安永年間まで活躍したことについ..
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小説・写楽 1ここからのお話は、別のページで試みた実証の続きではなく、筆者の、随分と頼りなさを増しつつある脳味噌のどこかに一瞬キラリと閃いた妄想を、小説のような形で書き進めたもので、世の中に溢れている「写楽研..
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写楽・旧考 10(承前) では、やはり「写楽」は東洲斎写楽という、全く、それまで無名であった新人の絵師だったのでしょうか?何度も触れてきたように蔦屋重三郎は、財産半減という極めて重い処分を受けた後であり、この時期..
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写楽・旧考 9 北斎も対象外(承前) 蔦屋重三郎が寛政6年に東洲斎写楽の浮世絵を発刊した背景について、これまで「財産半減という処分を受けた後なので、蔦屋が浮世絵で大儲けを狙ったのだろう」といった解説が一般的に流布されています..
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写楽・旧考 8 三人三様の字体(承前) こうして六つを並べてみると、写楽と一九・長喜の落款を調べる前に、写楽の作品(落款)字体そのものを比較検討する必要性があることに気づきますが(「写」の字体が明らかに異なるものがある=上の落..
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写楽・旧考 7 特徴のある落款(承前) ここまでくれば、もう、一九・長喜のどちらかが写楽に違いない-そう考える人も少なくはないでしょう。後は、彼等のどちらかが写楽本人に間違いない、という証拠を見つければ良い訳ですね。では、長喜..
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写楽・旧考 6 長喜も真似た写楽(承前) このページの最初に紹介した「写楽=能役者説」は、江戸の町名主・斎藤市左衛門(号は月岑・げっしん。1804年生まれ)が「追補」の中で次のように述べている文言が基盤になっているものです。(つ..
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写楽・旧考 5 増補浮世絵類考(承前) 『南総里見八犬伝』の作者としてお馴染みの曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で、一九について「寛政6年の秋頃より蔦屋の食客となり、浮世絵に使用する用紙のにじみ止めのため、明礬(みょう..
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写楽・旧考 3 千両役者(承前) 御覧のように、写楽が浮世絵師として登場してくる前後の江戸は、火事・台風・地震という災害が日常茶飯事のように起こり、天候異変は農作物の収穫を激減させました。この結果、全国的な食糧不足が起こ..
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写楽・旧考 2 寛政の時代(承前) 曰く「写楽は能役者の斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)である」「いやいや、そうじゃない。版元の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750~1797)こそ写楽に違いない」「それは違う..