記事「武田信玄」 の 検索結果 743 件
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武田信玄と歴史―そこから見えてくるもの(信玄塚墓壙)―山梨県立図書館で目当ての書籍を見てきました。 『武田信玄終焉地説 「武田信玄終焉の地考」(解決編)』です。 初めは、「天正玄公仏事法語」という恵林寺に蔵置されている天正四丙子四月十六日に行わ..
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武田信玄と歴史―根羽村横畑の墓石群―武田信玄の終焉地、信濃下伊那駒場―横畑にかけての地域。 現在残る史跡の地で失われたものは根羽村横畑にあった信玄塚。 国道新設時に国道下に埋没してしまいました。 古写真には旧国道と十..
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武田信玄と歴史―信長と武田親子の首―浪合村の史跡の続きです。 浪合村の郵便局の脇には、天正十年三月十一日、甲斐大和村田野の地で自害した、武田勝頼・信勝父子の頸が検分された地が史跡として残されています。 記念碑には、..
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武田信玄と歴史―火葬塚、古老の語り―『信州駒場で死んだ武田信玄公』からの引用の続きです。 駒場の古老の方の話が主です。 そこには、 大体誰の記憶も同様であったが、その中の一番の老人である岡庭唯一氏(八九才)からの話を書..
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武田信玄と歴史―続 信玄公火葬塚―前回の続きで『信州駒場で死んだ武田信玄公』からの「信玄公火葬塚」についてを引用します。 そこには、 三、信玄公の遺体の処理はどうしたか 昭和十年前後の話である。東京から有吉喜..
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武田信玄と歴史―駒場 信玄公火葬塚について―武田信玄公の終焉地といわれる駒場。 その資料を求めて、山梨県立図書館で関連書籍の閲覧をしてきました。 駒場地域の信玄公に関する記述がある書籍は、 『武田信玄終焉地考』 一ノ瀬義法 著..
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武田信玄と歴史―文献資料からみる信玄塚―駒場の信玄公火葬塚についての資料を求めて、山梨県立図書館を訪れました。 まず初めに『武田信玄終焉地考』 一ノ瀬 義法 著 昭和四十二年七月二十日初版 (たつのこ出版刊)を閲覧、この書籍は全..
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諏訪法性の兜(その3)画像は諏訪法性の兜との伝承の由来を持つ遺品であります。所伝は武田家滅亡後、甲斐の国に入った徳川家家臣鳥居家に旧武田家臣の者より武田家遺品として進上されたものとされています。 あくまで伝承の話..
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砥石崩れ―文書から見えるもの―武田晴信が真田に宛てた約束手形。そこには望みが叶ったら、「諏訪方」と「横田遺跡上条」を合わせ千貫の所領を与えると記されています。千貫は現在の価値に換算(一貫は約十万円)すると一億円という金額..
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諏訪法性の兜画像は長野県、下諏訪町立諏訪湖博物館蔵の「諏訪法性(すわほっしょう)の兜」であります。 元は諏訪大社神長官の守矢家伝来。 江戸時代の作とされている。 江戸時代、明和三年(1766)に人形..
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瀬沢合戦 伝承地「トヤヶ峯」瀬沢合戦における諏訪軍の陣場とされる「トヤヶ峯」であります。写真は瀬沢地区の笠塔婆と思われる石塔がある「中尾山 西照寺」裏手より撮影したものであります。地元の方複数に確認したので間違いは無いと思..
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瀬沢合戦 史料を求めて『諏訪藩主手元絵図』長野県諏訪郡富士見町にある瀬沢古戦場。 現地の説明板による諏訪頼重と武田信玄の陣場が記された『諏訪藩主手元絵図』(すわはんしゅてもとえず)という史料から調べたところ、諏訪史談会から刊行された書物の存..