記事「武芸者」 の 検索結果 29 件
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小笠原源信斎小笠原源信斎は遠江の国、高天神城主だった小笠原氏の一族で、奥山休賀斎の弟子になって神陰流(神影流)を学びます。 今川家の家臣でしたが、永禄12年(1569年)に今川家が没落した後、徳川家康に..
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上泉伊勢守 生誕500年新年おめでとうございます。 今年は剣聖上泉伊勢守の生誕500年にあたります。 上野の国、上泉城(前橋市)に生まれた伊勢守は幼い頃より武術を習い、元服してから武術の本場である鹿島に修業に出ま..
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上泉伊勢守と箕輪城永禄9年(1566年)の9月、武田信玄に攻められて、上野の国の箕輪城は落城します。その時、上泉伊勢守が箕輪方の武将として活躍したと言い伝えられています。数々の資料に目を通し、小説も読んで、私もそう信じ..
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柳生石舟斎上泉伊勢守の高弟の1人で、新陰流の正統を継ぎました。大和の国、柳生の庄の豪族で、本名は柳生新左衛門宗厳といいます。 宗厳は新当流と富田流を極めて、畿内では有名な武芸者でした。関東から上泉伊勢守が来た..
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丸目徹斎上泉伊勢守の高弟の1人で、肥後の国(熊本県)、人吉に生まれ、本名は丸目蔵人佐長恵(くろうどのすけながよし)といいます。 幼い頃より武術の修行を積んで、武者修行の旅に出て、負け知らずの強さでしたが、京..
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奥山休賀斎上泉伊勢守門下の四天王の1人です。本名は奥平孫次郎公重といい、三河の国、奥山郷の生まれです。三河からどういう経路で上州まで来たのかはわかりませんが、伊勢守が上泉城にいた頃の弟子のようです。 伊勢守か..
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神後伊豆守宗治上泉伊勢守の門下で、疋田豊五郎と双璧を成していたのが、神後伊豆守です。 越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、豊五郎と共に伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。その時、鈴木意伯..
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疋田栖雲斎新陰流の流祖、上泉伊勢守の高弟で、伊勢守の甥に当たります。晩年に栖雲斎(せいうんさい)と号しますが、本名は豊五郎景兼といいます。虎伯とも号しました。 父親は疋田主膳景範といい加賀の国、倉月庄疋田郷の..
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慈音武術の三大源流と呼ばれるものに陰流、神道流、念流があります。 陰流の流祖は愛洲移香斎(あいすいこうさい)、神道流の流祖は飯篠長威斎(いいざさちょういさい)、そして、念流の流祖は慈音(じおん)です。 ..
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飯篠長威斎武神を祀っている鹿島神宮と香取神宮には古くから武術が伝わっていました。その二つの武術をまとめて体系付け、『天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)』と称したのが飯篠長威斎(いいざさちょういさ..
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塚原卜伝剣豪で名高い塚原卜伝は常陸の国(茨城県)の吉川家の次男に生まれます。吉川家は代々鹿島神宮の神職を務める名家でした。 武神を祀る鹿島神宮は古くから武術が盛んで、その武術は『鹿島の太刀』と呼ばれてました..
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海野能登守輝幸海野能登守は上野国羽尾(群馬県吾妻郡長野原町)城主、羽尾治部少輔の三男に生まれます。 幼い頃より剣術の修行に励み、18歳頃、武術の聖地だった鹿島に行って、新当流の塚原卜伝の弟子になります。卜伝と共に..