記事「祠」 の 検索結果 279 件
-
恩納集落の根神火神(ねがみひぬかん)・琉球国由来記に記された「恩納ノロ火の神」だろうか。恩納集落は琉球王府時代の恩納間切(行政区画)の中心地で、恩納番所があった。今でも、その跡地が残っている。角川日本地名大辞典、近世恩納村の項に「琉球国由来記(1713年)には、ヤウノ嶽(三御前)・浜崎..
-
田港(たみなと)集落の拝所(うがんじゅ)・古い歴史を刻む拝所が点在している。ひと月ほど前に塩屋集落にある「森川子の宮(むいかーぬしーのみや)」を訪ねたが、田港集落は、そこから塩屋湾沿いに東に向かって1㎞程も歩いたところにある。その日は国頭村を目指して、ひたすら北上していたの..
-
奥間鍛冶屋(おくまかんじゃーやー)フイゴの拝所・察度の弟泰期と奥間の金萬は同一人物か?。比地の神アシャギから国道58号線に戻り、奥間集落に通じる旧道に入って行った。奥間共同店の反対側にある小路を進むと、突き当りに奥間鍛冶屋の子孫、座安家がある。 座安家の屋敷左手の山際に、コンクリー..
-
比地(ひじ)の神アシャギ・近くにある筈の山口神社(アマミク宮)に辿り着けない。残念無念。神アシャギは、国道58号線に架かる比地橋北詰の交差点から、東に向かって1㎞ほども歩いた丘陵上にある。角々に道標が建っていたので、迷うことなく行き着くことが出来た。国頭村教育委員会が設置した説明板があ..
-
森川子の宮(むいかーぬしーのみや)・塩屋の集落に製塩技法を広めた人物だそうです。大宜味村、塩屋小学校の正門わきに、塩屋小学校の正門脇に、校舎を背にしてコンクリート造りの鳥居と拝所が建っている。祠には数個の石が御神体として安置されていた。この霊石は釜石と呼ばれ、製塩釜の下に敷き詰..
-
親川城跡の拝所(うぇーがーぐすくあとのうがんじゅ)・奇妙な祠があった。親川城跡は、名護市北西部の羽地内海を見下ろす台地上にある。羽地(はねじ)グスクとも呼ばれているが、いつの時代に、誰が築いたのか判然としないそうだ。伝承によると、古琉球の三山(北山、中山、南山)時代、..
-
天后宮(てんごぐう)天后宮は、久米島真謝集落の県道わきにあって、フクギ(福木)の森に囲まれていた。道教の神様で、航海の守護神である媽祖(まそ)が祀られている。 お堂は、三間四方ほどの入母屋造りで、屋根は赤瓦で葺かれ..
-
久米島観音堂(くめじまかんのんどう)久米島の最高峰が、標高309.5mの宇江城岳で、頂上に宇江城跡がある。台風12号の余波で、激しい雨に打たれ、北からの風に煽られながら登って行った。傘なんて何の役にもたたない。視界は360度のはずだが..
-
瀬底の土帝君 (せそこのとていくん)・本土では、馴染みのない神様です。瀬底島は本部(もとぶ)半島の東側にあって、周囲7.3㎞ほどの小さな島である。昭和60年(1985)に瀬底大橋が完成し、今では、海峡を歩いて渡ることが出来る。大橋の上から俯瞰した波打ち際が、静かに動い..
-
喜名観音堂(きなかんのんどう)・ご本尊様は、プラスチックの容器に閉じ込められていた。沖縄本島には、喜名、あるいは喜納 (きな)の地名が複数個所にある。焼畑を意味するそうで、古い時代、焼畑耕作によって拓かれた集落のようだ。読谷村喜名は、琉球王府が整備した宿道(しゅくみち)の重要な宿駅..
-
仲昔今帰仁按司祖先之墓(なかむかしなきじんそせんのはか)・仲昔今帰仁按司三代の墓です屋良城跡を訪ねた後、城主であった御先大川按司(うさちおおかわあじ)のご先祖様が葬られていると云う「仲昔今帰仁按司祖先之墓」に詣でることにした。 屋良城跡から58号線に戻り、さらに嘉手納の市街地を..
-
砂辺ヌ前(すなべぬめー)の合祀所と砂辺集落の拝所・砂辺は古代の歴史を色濃く残す集落だった。浜川集落から北に向かって歩き、砂辺集落に入る。砂辺ヌ前の拝所は、マンションが立ち並ぶ街の中にあった。低いブロック塀に囲まれた空き地があって、その隅に合祀された拝所が並んでいる。入口は鉄製の格子戸で塞..