記事「祠」 の 検索結果 279 件
-
喜友名小屋取(ちゅんなーぐゎーやーどぅい)・孔蓮廟(こーしびょう)・平安山(はんざん)の拝所浜川集落に入ったら、巨大な亀甲墓が並んでいた。沖縄では住宅街に亀甲墓があるのは珍しくはない。台地の下に続く岩盤を切り抜くようにして造られて、6基が連なり、さらに崩壊したのか、他の場所に移されたと思わ..
-
嘉手苅観音堂(かでかるかんのんどう)・観音様の姿が見えない観音堂だった。那覇から77系統のバスで1時間30分の旅、東恩納で下車して歩き始めた。いつものことだが、ローカルバスで、こんなに長い時間、座席に座っている乗客はいない。下車するときに運転手さんから、大きな声で「あり..
-
知花城跡の拝所(ちばなぐすくあとのうがんじゅ)・本丸跡にある展望台は、ホームレスの住処になっていた。鬼大城(うにうふぐすく)の墓を訪ねたあと、体力が残っていたので、もう一度、知花城跡に戻り、展望台があるという頂上にまで登ってみた。雑木が生い茂った中に続く石段は急で、途中で二度ほど小休止することにな..
-
越来城跡の拝所(ごえくぐすくあとのうがんじゅ)・歴代の王と深い関わりのあるグスクだった。国道329号線の比屋根交差点から、コザ高校に至る凡そ2㎞の間は、だらだらとした上り坂が続いている。おまけに日差しが強くて、てくてく歩きには厳しい道のりだった。コザ高前のバス停で一休みして、再び歩き始..
-
渡口のティラ(とぐちのてぃら)・天辺に宝珠が載っていて、ユニークな形の祠である。沖縄語でティラとはお寺のことである。ただ、ティラも祠も区別がつかない。本土で云う寺社を想像したら間違いである。渡口のティラは、17世紀初めに建立されと伝わり、沖縄県の有形民俗文化財に指定されている。..
-
安谷屋の神屋(あだにやのかみやー)・王に傅く女性には、妃・夫人・妻の序列があり呼称が定められていた。中城若松の墓から石段を下り、道路を横切って更に向かい側に続く石畳を下ると、右手に雑木に覆われた神屋が見えてくる。若松の直系に当たる外間家の神屋で、若松と母である安谷屋ノロの位牌が安置されているそうだ..
-
泊大屋(とまりうふやー)・護佐丸との縁は深い。泊大屋(泊りうふやー)は、中城グスクの麓、泊集落にある。拝殿は隣接する小橋川家の神屋であり、小橋川家の屋号が泊大屋である。ご先祖は泊村を知行所として治めた泊大屋子(とまりうふやく)であると伝承されて..
-
伊舎堂安里(いしゃどうあさと)・元祖は護佐丸の兄で、伊壽留按司と呼ばれた人物である。中城グスクの入り口、管理事務所の向かい側に緑に覆われ、森の奥に進む道がある。入っていくと、伊壽留按司((いずるんあじ)の墓に突き当たる。 伊壽留按司とは、1440年頃から1448年まで、..
-
伊計城之殿(いけいぐすのどぅん)・教育委員会が設置した案内標識の写真と違う祠なんだけど・・・。伊計島は海岸段丘の島なので、地形は平坦であり、標高は概ね20mから30m程だが、伊計城は島を一望できる標高49mの高台に築かれている。島の南西部に突出した岩山で、もとは砂州で繋がった小島であったよう..
-
伊計島の拝所(いけいじまのうがんじゅ)・共同売店のおばちゃんと話が弾んだ。伊計島(いけいじま)は沖縄本島中部にあって、太平洋に突き出した勝連半島の北東、凡そ10㎞程の海上に浮かぶ小島である。今では、勝連半島から海中道路で平安座島が結ばれ、平安座島と水路を隔てた宮城島の間に..
-
シヌグ堂(しぬぐどう)・シヌグとは豊穣と安寧をもたらす来訪神のようである。浜比嘉大橋の南詰まで来たら、アマミチュー、シルミチューの案内標識と一緒に、反対方向を指して「東の御嶽(シヌグ堂)」の標識が見えたので立ち寄ることにした。 ガジュマルの大木が絡み合い鬱蒼とした森の..
-
シルミチュー洞・シルミチューとは、アマミチューと一緒に降臨した琉球の祖神です。アマミチューの墓から凡そ1.5㎞ほどの距離にある。標識に従って歩くと、迷うことなく兼久の浜に突き当たり、その先の私道を入っていくと、シルミチューの洞窟下に辿り着く。 鳥居を抜けると100段もある..