記事「祠」 の 検索結果 279 件
-
潮御願 (すーうがん)・眼下の屋慶名海峡を、東洋のローレライと呼ぶらしい。那覇から52系統のバスに乗り、前回訪ねた勝連城の入口で下車して歩き始めた。爽やかな空気を吸って、てくてくと…、と言いたいところだが、沿道にある豚舎からの臭いが強烈である。 屋慶名の市街地に入..
-
報恩社 (ほうおんしゃ)・南風原村の開発に尽力した人物、カッチンバーマーが祀られている。ジーブ大屋と隣り合わせで報恩社がある。報恩社にはカッチンバーマーと呼ばれ、南風原村(現うるま市勝連南風原)の開発に尽力した人物が祀られている。拝殿の前には、2002年に南風原集落の有志が建立した立派..
-
ジーブ大屋(じーぶうふや)・ジーブ大屋と儀保掟は、同一人物なのか。南風原ノロ殿内の神屋と同じ道筋に、住居のようでもあり拝所のようにも見える建物があった。中央軒下に円形で銀色に塗られた太陽(てぃだ)を表す造形物があって、その下に「ジーブ大屋」と刻印された石板が嵌め込..
-
南風原ヌル殿内(はえばるのろどぅんち)・祭祀の立役者は神女(ノロ)である。痛めた右膝をかばいつつ、勝連城の拝所を巡り終え、南風原集落に向かう。南原小学校の後ろに古い軒並みが続いているので入って行った。縦横に入り組んだ路地は、沖縄の古い集落ではお馴染みの佇まいで、辺りの風景..
-
黄金宮(くがにみや)・田畑に積み上げられた石ころは、すべて金銀の塊だった。黄金宮は、中山王察度が王に就く前の住居跡だそうだ。西森御嶽から1㎞ほど南に下った所にある。凡その見当をつけて県道34号線から集落に入って行ったが、例によってどっちの方向に進めば良いのか分からなくなっ..
-
内間御殿(うちまうどぅん)・祭壇は清楚に整えられていた。内間御殿とは、第二尚氏王統の始祖である金丸、後の尚円王が内間地頭に任じられたときの居宅跡に建てられた神殿である。尚円が歿して190年も経た1606年頃に造られたそうだ。 神屋を取り囲む石積みが..
-
幸地城跡の拝所(こうちぐすくあとのうがんじゅ)・ご神体は鬢頭廬(びんずる)様のようだ。モノレールの首里駅から、県道29号線を3kmほども歩くと西原町の幸地集落に入る。道順を尋ねながら幸地城跡がある高台に登って行った。標高100mの頂上に、本丸の跡と思われる広場があり、後方が一段と高く..
-
沢岻拝所(たくしはいしょ)・沢岻集落の神々が合祀されていた。浦添市に沢岻(たくし)という集落がある。国道330号線の東側にあって、沢岻バス停の脇から、集落に向かって急な階段が通じていた。 集落の北側は一段と高くなっていて、地元の人はクビリ山と呼んでいるそ..
-
兼城城跡の拝所(かなぐすくぐすくあとのうがんじゅ)・話好きの老人に出会った。感謝。国道331号線、西崎入口のバス停で下車して交差点を左に折れ、丘陵に向かって歩く。登り切ったところが兼城の旧集落である。野面積みの石垣が続いて、その向こうにガジュマルの巨木があった。空き地..
-
名城城の拝所(なしろぐすくのうがんじゅ)・名城は、古代人が暮らしていた集落である。沖縄本島の最南端に位置する喜屋武岬、その先にある荒崎まで行ってきた。沖縄戦で米軍に追い詰められた夥しい軍人、民間人が最期を遂げた地である。平和の塔に向かい祈りを捧げて来た。 喜屋武集落に戻り、国..
-
唐の船御嶽(とうのふにうたき)・ご神体が粟おこしの固まりのようだ。もと来た道へ戻り、玉城那覇自転車道と書かれた標識を見ながら、県道を下って行った。地図には「沖縄のみち自転車道」と記されている。南城市玉城前川から那覇市首里当蔵町の首里公園を結ぶ一般県道で、正..
-
木田大時(むくだうふとぅち)の屋敷跡・玉陵の埋葬者不明の石厨子は木田大時の物だと語り継がれている。夏の暑い盛りを避けて、久し振りにてくてく歩きの拝所巡礼に出かけてきた。9月も下旬とはいえ、沖縄はまだまだ真夏日が続いている。それでも汗ばんだ頬にあたる風は心地よい。この日は百名に向かう51系統のバス..