記事「祠」 の 検索結果 279 件
-
天次門ガマ(あまちじょーがま)・琉球を統一した尚巴志の出生伝説が残っていた。沖縄語では「門」のことを「じょう」という。天次門ガマ(あまちじょーがま)は、南城市玉城親慶原集落の西側高台にある。親慶原は「おやけばる」と読む。ないちゃーには、何度も確認しないと覚えられない地名の一..
-
久高島その4 久高殿、大里家、外間殿・久高島を拓いたご先祖様の御三家である。久高殿(くだかとぅん)、大里家(うぷらとぅ)、外間殿(ほかまとぅん)は、久高島を拓いたご先祖様の御三家である。久高殿は集落の北にあり、久高島の祖先だと伝わる百名白樽と、その娘久高島祝女(ノロ)が天地..
-
苗代大親の屋敷跡(なーしるうふやのやしきあと)・琉球王朝第一尚氏、初代国王尚思紹の屋敷跡である。苗代大親(なーしるうふや)とは、後の琉球王朝第一尚氏、初代国王の尚思紹(しょうししょう)で、三山(北山国、中山国、南山国)を統一した尚巴志の父である。苗代大親については、「佐敷上城の拝所」と「佐敷城..
-
久茂久岩(くむくじぃ)・その昔、唐船が暴風で難破、漂着した38名の遺体を葬った場所である。国道331号線の当添(とうぞえ)の信号を左折して、当添漁港に向かって集落の中に入って行った。漁港に突き当たる少し手前の十字路に、右矢印で久茂久岩(くむくじぃ)の案内標識が立っている。拝所は住宅街の一..
-
東名大主の拝所(あがりなうふしゅのうがんじゅ)・与那原の地を拓いた人物のご先祖様だそうだ。これから訪れようとしている東名大主(あがりなうふしゅ)の拝所は、ガイドブックによると、与那原町役場の駐車場の一角にあるという。与那原町役場は市街地の背後に続く丘陵にあって、国旗と与那原町旗が上がって..
-
久葉堂(くふぁどぅう)・「久葉堂」は、「クバの御嶽」や「クボー御嶽」と同義語なのか?三津武嶽から次の目的地、東名大主(あがりなうふしゅ)の拝所に向かう途中、国道沿いに「久葉堂・あかぎ児童館」の案内標識を見かけたので右折し、住宅街へ入って行った。与原区公民館と、あかぎ児童館が併設され..
-
大城のろ殿内(うーぐしくぬんどぅんち)・高台からの眺望は心の休憩。国破れて山河あり。高台からの眺望は心の休憩である。丘陵の緑が幾重にも重なり、狭間には白い市街地が広がって波打っているようだ。遠く那覇の市街地が望め、目を凝らすと、白亜の殿堂?県庁の白い建物まで分かる。丘陵の緑と市街地..
-
上間殿内(うえまどぅんち)・上間家の先祖は、尚円王の直弟だと伝承されているのだが・・・?具志堅地区公民館の横に、山間に向かって伸びる道があり、具志堅の集落に続いている。山懐に抱かれるような集落は、小路が入り組んでいて、艶やかなフクギの葉に覆われた静かな佇まいである。 目指す「上間殿..
-
ワルミのティラ(わるみのてぃら)・ユタ(霊媒師)との遭遇!地図で見ると、今帰仁村天底の小字名に片仮名で「ワルミ」と表記された地名がある。本部半島の首根っこの部分と、屋我地島に挟まれた細長い海峡の西側に位置している。この、内海から東シナ海を結ぶ海峡を「ワルミ海..
-
湧川の新里屋(わくがわのしんざとやー)・大小様々な位牌が並び、其々に歴史が刻まれている。今帰仁村、湧川の集落に「新里屋」と呼ばれる拝所がある。湧川小学校の先に信号の付いた交差点があり、「湧川の路次楽」の案内標識が揚がっていた。左折して400mほども歩くと、左側に湧川公民館があって、向か..
-
勢理客ノロ殿内跡 (じっちゃくのろどぅんちあと)・祠の扉に手を掛けてみたけど、開かない。元来た道を戻り、運天港ターミナルで一休みすることにした。離島へ向かう連絡船の待合所で、途中で買い求めてきたアンパンと牛乳で昼食をとる。連絡船が出た後なのか、待合所には誰もいない。売店も閉まったままで..
-
諸志のパラヤー(しょしのぱらやー)・内地では見かけない「焚字炉」。沖縄の貴重な文化遺産。諸志(しょし)のバス停の先に、左矢印で「焚字炉(ふんじろ)」と記された標識が揚がっている。バス通りから少し入った道端に焚字炉はあった。大きな石灯籠の笠と、明かりを燈す火袋だけが無造作に置かれているよう..