記事「稲村ケ崎」 の 検索結果 36 件
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白根不動尊横浜市旭区にある不動尊で、本尊は弘法大師作の不動明王だったそうですが、正慶(元弘)年間に新田義貞が発向した際、兵火により伽藍が全焼し不動明王像も火中に失われたとのことです。江戸時代には、白根神社と一体..
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若宮大路幕府跡鎌倉幕府は当初、大倉の地に置かれましたが、その後宇津宮辻に移動。さらに、嘉禎2年(1236年)に若宮大路御所に移されました。そして、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府はついに、この地で終焉を迎えました。..
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東勝寺跡東勝寺はかつて鎌倉市葛西ケ谷にあったお寺で、北条氏の菩提寺であると同時に城塞の意味をもった寺院であったと推測されているそうです。鎌倉幕府滅亡時には、北条高時ら北条氏一門多数が自刃したところです。
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腹切りやぐら鎌倉幕府は元弘3年(1333年)、新田義貞による鎌倉攻めにより滅亡。北条一族とその家臣約800名は東勝寺に追い詰められて自害したとのことです。東勝寺跡の近くに当時の戦死者を弔ったと伝わる腹切りやぐらが..
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極楽寺坂極楽寺方面から由比ヶ浜に通じる切通しで鎌倉七口の一つ。鎌倉時代の後半に極楽寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開いたとのこと。新田義貞の鎌倉攻めの際には主戦場の一つとなりました。
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十一人塚稲村ケ崎駅近くにある新田義貞による鎌倉攻めの時の戦死者を葬った塚。 ここに葬られたのは新田方武将である大館宗氏以下11人とのことですが、 実際に11人が討ち死にをしたのは由比ヶ浜と云われているそうです..
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稲村ケ崎元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めの舞台となった場所として有名。国道134号線は昭和になって開削されたもので、当時は通行不可。現在は、鎌倉海浜公園として市民に親しまれています。
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瀬谷の原横浜市瀬谷区の「瀬谷市民の森」辺り一帯で、度々戦場となったところ。元弘3年(1333年)5月、鎌倉攻めを目指す新田義貞がこの地を通過し、応永24年(1417年)1月には、上杉禅秀の乱の戦場となりました..
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新田義貞首塚(小田原)新田義貞は北陸を転戦中の延元3年(1338年)に越前国藤島で討死しました。義貞の家臣宇都宮泰藤は晒された義貞の首を奪い返して上野国に向かう途中で病となり、止む無く義貞の首をこの地に埋葬したとのことです..
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小動神社鎌倉市腰越の江ノ電腰越駅からすぐ近くの小動岬に鎮座する神社。源平合戦の際、佐々木盛綱が近江国の八王子宮を勧請したものと伝えられています。また元弘3年(1333年)には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願し..
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乱橋鎌倉市材木座の大町四ツ角から九品寺に向かう途中にある橋の跡。元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻撃の際、防戦する幕府軍がこの橋の辺りで乱れ始めたため、乱橋という名がついたという云い伝えがあります。..
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泣塔泣塔は鎌倉市寺分、元JR東日本大船工場敷地脇に建つ宝篋印塔の通称。新田義貞の鎌倉攻めの際の洲崎古戦場が付近にあり、塔の背後のやぐらに葬られた戦死者を周辺の住民が弔う為に建てた塔と見られているそうです。..
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