記事「能高越嶺古道」 の 検索結果 13 件
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能高越嶺古道-32:能高駐在所-1【写真説明】天池山荘の前身が日本時代の能高駐在所であることは、このブログ並びに弊別ブログ「台湾百岳」で繰り返し説明した。今現在は天池山荘の由来を説明した林務局の案内板が山荘敷地内に二種立ってい..
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能高越嶺古道-30:古道東西分岐点【写真説明】筆者が能高越嶺古道分岐点として長らく勘違いしていた、南華山-能高山稜線と天池山荘から続く古道西段との出会い附近のパノラマ写真。同稜線南側の俯瞰で同写真中央に蒋介石筆に成る「光被八表..
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能高越嶺古道-15:ボアルン社【写真説明】左写真は霧社事件当時の蜂起蕃の一つ、旧ボアルン社とその漢音表記である母安山(標高1,528メートル)、現在は南投県仁愛郷精英村に属する。旧富士社であるが、富士社になったのが何時なのか..
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能高越嶺古道-10【写真説明】左写真について。霧社から合歓山(3,417メートル、台湾百岳36号)へ登り詰める省道14号(甲)線(合歓山越嶺古道)の途中から、能高山(写真左上の最高点)と能高越嶺古道西段を抱く山稜..
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能高越嶺古道-9【写真説明】花蓮市から省道9号丙線を南下、吉安の中心街を通り抜け刑務所(花蓮監獄)を過ぎた辺りの沿道にある「横断道路開鑿記念」碑(中央・右写真後方)と「横断道路開鑿殉職之碑」(同前方)。横断道..
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能高越嶺古道-8【写真説明】これら二葉の写真は本文の記事とは関係ない。能高越嶺古道西段途中から撮影した能高山である。右側は「国家資料庫」のアーカイブに保存されているものを拝借した。昭和10年(1935年)撮影と..
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能高越嶺古道-7【写真説明】能高越嶺古道東段の実質的な入口となる銅門発電所。右写真は、同発電所内にある日本時代の銅門駐在所跡と思われる遺構。銅門はタロコ族群の村落、花蓮市から少しばかり南下し、木瓜渓を渡るとその..
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能高越嶺古道-6【写真説明】左写真は南華山稜線から霧社方面を望んだもの。写真では少々判り難いが白い雲の下当りの白い粒粒が町々である。同写真右の山肌を天池山荘に至る古道が走る。写真右下の白い部分が天池山荘と広場..
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能高越嶺古道-5【写真説明】天池山荘の後方に聳える南華山(能高山北峰、標高3,184メートル、台湾百岳75号)頂上稜線より、北側稜線(左写真)と南側稜線(右写真)を望んだもの。左写真右側一番奥が奇莱主山(標高3..
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能高越嶺古道-4【写真説明】能高駐在所跡地にある天池山荘とその近くに残る日本時代の弾薬庫。当時は神社もあった。今は、観光局、林務局、南投林区管理処の共同管理となっている山荘は元々は台湾電力の天池保線所。山荘前は..
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能高越嶺古道-3【写真説明】現在の台湾電力雲海保線所、元々は日本時代の尾上駐在所である。標高は2,360メートル。尾上の名は、この保線所後方にある尾上山(標高2,652メートル)として残っている。古道歩きの一つ..
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能高越嶺古道-2【写真説明】能高越嶺古道の途中から霧社方面の灯を見下ろした写真。午前四時過ぎに撮影。霧社は既に標高が1,000メートルを越えているが、古道入口のトンバラは標高2,000メートルあるので、正に「見下ろす..
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