記事「蜀山人」 の 検索結果 43 件
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写楽斎と八丁堀 1 此道くらき江戸後期、文芸の分野で大いに活躍した大田直次郎(南畝、蜀山人)が大変に筆まめな人物であったお蔭で、二世紀もの時を隔てた今、私たちは当時の細々とした出来事、風物等のあれこれを手に取るように知ること..
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大田南畝の筆跡鑑定、その三資料探しをしていた折、偶然、大田南畝(蜀山人)の奥書を持った『舞曲扇林』という書物に出会ったので、紹介しておきます。これは初代・河原崎権之助(1596から1690)という歌舞伎役者が、元禄時代の初め頃..
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南畝の筆跡鑑定、その二大田南畝(蜀山人)が本業である勘定所での勤務の合間を利用して、書画会などを開いたのには相当の理由があった。研究者たちによれば、色紙や画などに「蜀山人」と一言書き入れるだけで「弐朱」つまり一万数千円程度..
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偽筆の天才・文宝亭文宝大田直次郎(南畝)を狂歌の師として仰ぎ、書画会などを取り仕切っていたのが文宝亭文宝の狂名で知られる亀屋久右衛門(1768~1829)で、飯田町にあった茶商へ婿養子として入った人物。別号を食山人、散木と..
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「方角分」の疑問点を語る文政元年七月五日、竹本と名乗る人物が大田直次郎(南畝、蜀山人)の自宅を訪れ、一冊の写本を置いて行った。それが『諸家人名江戸方角分』と呼ばれる人名録で、東洲斎写楽・能役者説を支える重要な資料ということに..
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「武鑑」と写楽と斎藤与右衛門江戸の町で浮世絵師の東洲斎写楽が活動したのは寛政六~七年のこと。御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人)が絵師のガイド本の原型とも言うべき『浮世絵考証(浮世絵類考)』を書き始めたのが、恐らく寛政十年頃か?そ..
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浮世絵類考と異国船御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人、1749~1823)が第1回の学問吟味を受けた、寛政四年九月、北海道根室にロシア使節が来航したが、幕府は長崎入港に必要な「許可証」のみ発行し、一切の交渉には応じなかっ..
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長崎でコーヒーを飲む大田南畝寛政六年が明けた頃、江戸の町にある屋敷の一角で、版元の蔦屋重三郎から注文のあった、歌舞伎役者の大首絵二十八枚の下絵描きに、東洲斎写楽が呻吟していた、正に、その頃、当時としては、もう「初老」と言っても良..
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娘の誕生日の翌日は父が誕生日、しかも65とあって老人の仲間入り。つっとんがった稿が続きましたので、ここらで蜀山人の狂歌百人一首で笑いましょうかねよく続きますね。 本BLOGの投稿も天気予報の『降る降る詐欺』もです。 庭情報で大物の話題から入りましょう。 ハナズオウが見ごろになってます。 うん、お借りした画像より少し前くらいかな? そ..
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兎園小説は戯作者の曲亭馬琴(1767~1848)が、今からおよそ200年前の文政八年に、自らが主宰して当時の文人仲間十二名を集めて作った同好の集まり兎園会で語られた、珍しい話や奇妙な話を編纂した資料集で、WEB..
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そういや去年の夏に浅間が噴火したんでしたね。あっと、実際に投稿してるのは翌2020年の暮れ半ばになってなんですなんだかだでガタガタしてたとこに、結構なニュース。 浅間が噴火したらしいですね。 日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 背なのが袖も さやに振らしつ (万・巻十四3403) ..
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お月様シリーズ復刻・中秋の名月篇 ~ 現実に投稿してるのは翌年の10/1のことです。9月13日は何の日? え?十三日の金曜日だって? ま、私はその宗教ではありませんので。 ん?仏滅? しゃーない、旧暦でも。 と見れば。 8月15日、仲秋の名月ではありませんか! ..
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