記事「西行」 の 検索結果 108 件
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義経と西行 7 運命の地、平泉(承前) さて、今回もまた長々しい前説になりましたが、肝心なのはここからのお話しで、奥州へ勧進の旅に出かけた西行と、頼朝の追っ手を逃れた源義経が、果して藤原氏の本拠地で出会えたのか?という推理なの..
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義経と西行 6 銀の猫、童に与える(承前) 西行にしてみれば一刻も早く鎌倉から離れたかったのかも知れませんが、結局、源頼朝との面談は「終夜」におよび、翌日も「しきりに抑留」されたのですが、お昼頃、ようやく旅立ちました。その時の逸話..
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義経と西行 5 詠歌の奥旨を知らず(承前) 西行と源頼朝との面談について幕府・公文書『吾妻鏡』は、その模様を次のように伝えています。 八月十五日、二品(頼朝のこと)鶴岡宮にご参詣。 而るに老僧一人鳥居の辺りに徘徊す。 ..
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義経と西行 4 重衡が寺院を焼討ち(承前) 安徳天皇(あんとくてんのう)が即位し平清盛が天皇の外祖父の地位を得た治承四年(1184)、全国規模の動乱が各地で相次ぎ世情は正に騒然となりますが、それでも新年を迎えれば、何かよい事でもあ..
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義経と西行 3 佐藤家は藤原一族(承前) 西行は「旅」そして「無常」感と共に語られることが多く、何物にも囚われない俗世間とは縁を切った漂泊の自由歌人といった印象が強い人物ですが、彼がもともとからどの寺にも属さない一介の法師として..
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義経と西行 2 平清盛と西行は同い年(承前) では、幕末の風雲児・高杉晋作がお手本とした西行法師とは一体どのような人だったのでしょう。国語・古文の授業で『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)に収められている和歌を学ばれた方も多いこ..
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義経と西行 1 東行は高杉晋作日本国初の内閣総理大臣にして、師筋にあたる吉田松陰(よしだ・しょういん,1830~1859)から『周旋』の才があると認められた、あの正二位大勲位公爵・伊藤博文(いとう・ひろふみ,1841~190..
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赤あげて白あげて、みたいな和歌に人生が見える世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけり 西行が出家前後に詠んだ歌とされていて、以前にも触れた(参照)歌とほぼ同時期に作られたようだ。 惜しむとて惜しまれぬべきこの世..
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惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ慌しく月日が流れる。 疲れは眠ることによって解消されるが、ストレスは脳内にモヤモヤとあり、その棄てどころがない。 そこで、一時間ほど仕事の合間を縫って、気分を変えようと近くの神社に梅を観に出掛..
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逢魔が時人影もなく、異次元とも思われる桜の道を歩きます。 願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ 俳聖の芭蕉に対し歌聖の西行。 共に旅を常態とした生涯は、人生の深いあこがれです。..
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来し方と今酒を酌み交わしながら、マージャンを楽しみながら、時には大きく意見が異なり、言い争いになりながら、ほぼ半世紀にわたって交際のあったK氏が他界して、早や十年が過ぎた。彼は筆者より九歳年長だから、存命であれ..
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◆きょう8月26日は崇徳天皇の薨御された日です。◆きょう8月26日は崇徳天皇の薨御された日です。 長寛二年【1164年】八月二十六日のことです。旧暦との違いはありますが、853年前のこと。 崇徳上皇〔すとくじょうこう〕は、後に讃岐院と称さ..
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