記事「関ケ原」 の 検索結果 81 件
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関ケ原はい! なかなか観よう観ようと思っていた、戦国合戦大作である岡田准一主演関ヶ原! やっと観ることが叶いました。 これは、あの関ヶ原の合戦と、そこに至るまでの各陣営、戦乱の..
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真田・徳川会見の地第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸・信繁父子と、東軍の使者の真田信幸と本多忠政が会見した場所が信濃国分寺とされています。 この合戦で、真田昌幸は徳川軍を上田城に釘付けにすることができました。
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桃配山関ヶ原の戦いの際、東軍の総大将徳川家康が最初に陣を置いた場所。 また、桃配山は672年に起きた壬申の乱のおり、大海人皇子(後の天武天皇)が 出陣して桃を全兵士に配り、戦いに快勝した所と伝えられています..
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東首塚JR関ケ原駅からすぐ近くのところにあるのが関ケ原合戦の東首塚。 家康の命により首実検後の首を竹中重門が祀ったとされるところです。 関ケ原合戦の戦死者は、両軍合わせて1万~4万にも上るそうです。
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松平忠吉・井伊直政陣跡慶長15年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦において、家康の4男である松平忠吉と後に彦根藩主となる井伊直政が約6000の兵を率いて陣を構えた場所。 午前8時頃、この両名は先鋒の福島正則より先に抜け..
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首洗いの古井戸討ち取った首級を洗ったとされる古井戸で、関ケ原の東首塚のすぐ脇にあります。 家康による首実検に先立ち、合戦で討ち取られた西軍将士の首級は、 この井戸水を使って血や土などが洗い落とされたと伝わっています..
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本田忠勝陣所跡本多忠勝は徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた武将。 関ケ原合戦においては「十九女池」の西側に陣を置き、軍監として参戦した ものの、島津隊に向かって進撃して西軍武将の切り崩しにも活躍したそう..
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島津豊久碑島津豊久は安土桃山時代の武将で、島津義弘に仕えた島津氏の家臣。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父の義弘と共に西軍として参陣。 島津軍が戦場を離脱する際に、豊久は義弘の身代わりとなって討死..
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関ケ原伊吹山の南東麓に位置する交通の要衝で古代には不破関があった処。 慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦では、東西両軍合わせて18万ともいわれる軍勢が集結し、天下分け目の激戦が繰り広げられました..
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小早川秀秋陣所跡関ケ原を見下ろす松尾山にある小早川秀秋の陣地跡。 小早川秀秋は西軍として1万5千の兵を率いて松尾山に出陣しましたが、最終的には 家康の催促に応じて松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかりました。
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福島正則陣跡東軍の先鋒で約6000の兵を率いた福島正則の陣地跡。福島正則は当日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかったそうです。 神社境内に立つ樹齢800年の大杉は関ケ原合戦屏風にも描かれていま..
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西首塚関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬したと伝わる塚で別名が胴塚。 塚の正面にある御堂には千手観音と馬頭観音が安置されているそうです。 東首塚は東軍関連、西首塚は西軍関連の首塚とする説もあります。
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