記事「飯田城」 の 検索結果 24 件
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飯田城内を歩こう 【本丸】現在、長姫神社や柳田國男館・日夏耿之介記念館などが建つ一帯の曲輪です(追手町2丁目)。 本丸御門(一ノ門)をくぐると、飯田藩主の本丸御殿(御殿と奥御殿)がありました。平屋建てを主とした建物群で、18..
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飯田城内を歩こう 【山伏丸】最も東はしの曲輪です。眺めがよく、遠くに伊那山脈と南アルプス(赤石山脈)を望むことができます。現在、我らが三宜亭本館が建っています。 飯田城ができる以前は、このあたりには修験者(山伏)の修行所があり..
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三宜亭本館 名の由来三宜亭(さんぎてい)は今から約130年くらい前、明治初期に廃藩置県で飯田城が取り壊された後、山伏丸(かつて武器弾薬庫のあった場所)跡に最初は料亭として出来ました。 その当時の趣味人たちが酒を酌み交わ..
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近世飯田城(城下町)のつくりと特徴飯田城という場合、惣堀で囲まれた城下町も含めた全体を呼ぶときと、城下町を除いた追手門の内側のみを呼ぶときがあります。ここでは後者を飯田城内と呼び、城下町と区別することにします。 ◆飯..
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飯田のまちと飯田城飯田のまち(長野県飯田市 旧飯田町)は、「丘の上」とよばれます。それは、このまちが中央アルプス(木曽山脈)の南はし、風越山のふもとに広がる段丘上にあって、東側を流れる天竜川の支流――松川・野底川によっ..
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飯田城の歴史 ~概要~飯田城が現在の位置へ移ったのは、今から約780年前の坂西(ばんざい)氏の頃で、三宜亭本館辺りに本丸が築かれました。 その後、毛利氏、京極氏、小笠原氏と戦国と動乱の中で、城或いは城下町を改修し、江..
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飯田城のおこり飯田城のおこりははっきりしませんが、室町時代の坂西(ばんざい)氏によって築かれたと言われています。鎌倉時代に地頭としてこの地に来た坂西氏は、はじめ松原宿(飯田市上飯田)のあたりに住居をおきましたが、後..
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武田氏時代の飯田城戦国時代になると、全国の武将たちが領地を激しく奪い合うようになりました。甲斐から勢力を伸ばした武田信玄は、1554年(天文23)に下伊那に侵攻し、鈴岡城主の小笠原信定を攻め落としました。これを見た飯田..
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織田・豊臣時代の飯田城武田氏を滅ぼして伊那郡を手中にした織田信長は、ただちに家臣の毛利秀頼を大島城におきました。そして、秀頼は下条氏長を飯田城の城代としました。しかし、4ヶ月後の1582年(天正10)6月2日の本能寺の変に..
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江戸時代の飯田城1601年(慶長6)、関ヶ原の戦いで天下をおさめた徳川家康は、江戸幕府を開きました。幕府は、全国の大名を親藩・譜代と外様に分けて配置し、幕府直轄地(天領)には旗本や代官をおきました。1615年(元和元..
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明治時代の飯田城1869年(明治2)、版籍奉還が行われると、12代堀親広は知藩事となりました。ついで、1871年(明治4)7月、廃藩置県となり、飯田藩が廃されて飯田県が生まれました。明治新政府から東京移住と廃城を命じ..
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飯田城と城下町 その後飯田城跡は、桜丸から三の丸御広庭にかけたあたりには郡役所と裁判所や警察署と軍司令部などの役所施設、出丸跡には飯田尋常小学校(追手町小学校の前身)、二の丸跡には飯田中学(飯田高校の前身)・飯田商業高校(..
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