記事「1920年代」 の 検索結果 66 件
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1910年代の産児制限論戦前の人口政策をジャーナリズムがどのようにとらえていたか見ていくとき、1920年代までを、次の3期に分けて考えるのが妥当かと思います(その後、1940年の人口問題研究所の設立まで整理するつもりです)。..
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今後の検討課題近代デジタルライブラリーに大正年間の文献が増えてきているようで喜ばしいのですが、反面、自分の研究の未熟さを痛感させられることも多くなっています。 というわけで、いくつか出てきた今後の検討課題をメモし..
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保健衛生調査会の建議③さらに、この建議の中では、多産が想定されていたのではなく、妊産婦保護事業が徹底され、社会に衛生思想が普及した結果、欧米のように少産の時代がやってくることが想定されていた可能性について述べたいと思います..
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保健衛生調査会の建議②さて、その建議の内容ですが・・・以下に、15項目をそのまま載せてみたいと思います。 児童及妊産婦健康の増進に関する件 一、都市に於ては貧困なる産婦を収容する為産院を設置すること。 一、産院..
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保健衛生調査会の建議①保健衛生調査会における妊産婦保護事業の提唱(1920年9月)が、国の重要かつ画期的な政策転換であったことを書こうとしていたところ、ある方面から、その建議が何を意図して行なわれたのかわかりにくいというご..
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母性保護と妊産婦保護ここで少し用語の説明をしたいと思います。 母性保護・妊産婦保護ということばは、どちらも英語の maternity protection を翻訳したもので、1910年代には、母性保護論争からもわかるよ..
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山川菊栄と妊産婦保護②山川は、妊産婦保護事業を、女性のためのものとはみなさず、出産を促す「人口政策」、あるいは、そのための手段と捉えていることがわかります。産児制限運動は、それに対立する政策としてあるのだと主張します。 ..
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山川菊栄と妊産婦保護①1920年代巡回産婆の研究で、審査員の先生方から批判を受けた、いくつかのポイントについて、補足の研究を始めました。頭の整理を兼ねて、その過程をブログに書いていきたいと思いますので、よろしくお付き合いく..
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猪間驥一という人⑪猪間は、1920年代後半の妊産婦保護事業研究の後、席は東京市政調査会に置いたまま、1930年に設立された、上田貞次郎の日本経済研究会(通称、背広ゼミナール)に参加します。 人口問題研究を本格的に始め..
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猪間驥一という人⑩大学に残ることに執着のなかった猪間驥一は、人口論争が始まる少し前の1925年、東京市政調査会の研究員となり、精力的に調査研究活動を開始します。 彼が主として扱ったテーマが、乳児死亡率であり、その原因..
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猪間驥一という人⑨それから間もなく、猪間は、石橋湛山と思いがけない出会いをすることになります。 その顛末を、自伝ともいうべき、『人生の渡し場』(1957年)の「石橋湛山さんとクラーク博士」から見てみましょう。 「石..
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ご報告このたび、藤原書店の第4回「河上肇賞」奨励賞をいただくことになりました。 論文のタイトルは以下の通りです。 「1920年代の都市における巡回産婆事業 ――経済学者、猪間驥一の調査研究を通して――..