記事「プチャーチン」 の 検索結果 14 件
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歴史探訪(神奈川県立歴史博物館 特別展「北からの開国」)歴史探訪(神奈川県立歴史博物館 特別展「北からの開国」) 8月21日(水)横浜に用事があり、久しぶりに神奈川県立歴史博物館に行ってきました。特別展「北からの開国 ―海がまもり、海がつないだ日本―」と..
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ニコライ遭難稲佐郷は、ロシア人にとって特異な意味を持つ地であった。 嘉永六年七月、ロシアの使節プチャーチンが二隻の蒸気艦と二隻の帆走艦をしたがえて長崎に入港し、ロシア皇帝の開国をもとめる国書を提出した。その..
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外交交渉加藤祐三『幕末外交と開国』を読む。 1853年7月8日(嘉永六年六月六日),浦賀沖に巨大な蒸気船二隻に,帆船二隻のペリー率いるアメリカ東インド艦隊が現れた。その船に向かって,浦賀奉行所の役人..
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エフィミー・ヴァーシリエヴィチ・プチャーチン日本近現代史
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日露長崎会談国境問題 日露の国境問題はこの会談から始まった。千島列島と樺太の領有権を双方とも争ったのだ。 この問題は結論が出ずに先送りされることになる。 通商・和親 プチャーチンはアメリカより先に条約..
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川路とプチャーチン川路ら長崎に到着 嘉永6年12月5日にプチャーチンが長崎に入ると同年12月8日に川路聖謨と筒井政憲は長崎に到着した。 同年12月14日に両者は初めて会談する。それは交渉というものではなく慰労のため..
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ペリーの誤算香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求..
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吉田松陰が長崎につくもロシア船はいない松蔭の旅 嘉永6年9月18日(1853年10月20日)に江戸を出た松蔭は長崎へ向かう。だが、それは急ぎの旅ではなかった。長崎で交渉するであろうプチャーチンは長期間滞在するはずであるので、密航は交渉が..
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ロシア国書、江戸到着江戸にロシア艦隊の報告届く ペリーが浦賀を去って2月としない間に来たロシア艦隊。 江戸に第一報が入ったのは嘉永6年7月末のことであった。 阿部は老中、幕閣、幕臣らの意見を聞き対応に動くことになる..
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プチャーチンの事情クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチン..
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消えたプチャーチン長崎のプチャーチン 長崎に来航したプチャーチンは国書を長崎奉行に渡すと江戸からの使者を待つことにする。 この時にのプチャーチンはペリーと比べると非常に紳士的であり日本の国宝を尊守した。これにより長..
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プチャーチン、長崎に来航ロシアの対日外交 19世紀初頭より日本へ何度か来ていたロシア船であったが、それは北方の蝦夷近辺でのことであった。1852年、リンデンベルグが始めて下田へ来航して、漂流民と親書の受け渡しを求めた。だが..
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