記事「八幡神」 の 検索結果 26 件
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宇佐の黄金伝説 13 源氏の守り神(承前) 建保七年(1219、改元して承久元年)正月二十七日、午後六時、鎌倉将軍、右大臣・源実朝は恒例である拝賀のため鶴岡八幡宮へと出立した。鎌倉幕府の要人は勿論、京都からはるばると行列に扈従する..
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高良と竹内宿禰 4 玉垂神の実像は(承前) 聖武天皇が宇佐神宮を伊勢と並ぶ「第二の宗廟」と捉えた背景には、上で見てきた具体的なご利益が在った訳で、その八幡神の社を「宗廟」とするからには、当時の朝廷には八幡の神を帝室の「祖先」である..
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高良と竹内宿禰 3 宇佐神宮が金を約束(承前) 天平年間における朝廷最大の関心事と云えば「藤原広継の乱(西暦740年)」であり、東大寺の盧舎那仏が建立され、国内で仏教の存在が一段と重みを増した時期でもありました。広継が任地である北九州..
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高良と竹内宿禰 1 八幡神とのつながり奇岩の一つでもある「石の宝殿」と云えば兵庫の生石神社の御神体が良く知られていますが、実は大阪の寝屋川市にも同じ名前の遺物が伝わっています。同市打上にある「石の宝殿」或いは「石の唐戸」と呼ばれてい..
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超人・竹内宿禰 10 神を侮った仲哀天皇(承前) 息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は仲哀二年に皇后となった後、夫の仲哀天皇と共に九州での反抗勢力を鎮圧するため遠征、筑紫の香椎宮(現在の福岡市)に到着した時「神意」を問う儀式を行い..
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超人・竹内宿禰 9 八幡神との繋がり(承前) 「時政」とは勿論、北条時政(ほうじょう・ときまさ,1138~1215)のことですから、このお話は鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)が、武内宿禰の「..
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信長と神様、仏様 2 忌部氏説(承前) では残る忌部氏説はどうなのか?信じるかどうかは皆さんの判断にお任せしますが、信長の一生涯を書き記した『信長記』や各種の「織田家系図」によれば、彼の12代前(二百数十年前くらい?)の先祖に..
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【読書】宇治谷孟「続日本紀(下) 全現代語訳」(講談社学術文庫)こちらのつづき。下巻。 姉妹ブログからコピペ。
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和気氏と八幡神見落としているかもしれませんが、道鏡事件についてのまとまった記述は、『続日本紀』『日本後紀』の両方で通算三回くらいはあったかと思います。 一つは、『続日本紀』本文、通史として。 二度目..
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【動画】鎮守の社(八幡神社・サイパン島チャチャ地区)
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八幡神雑想⑤ 宇佐国造と宇佐公こちらで書いた通り、「日本書紀」神代巻の一書には、則ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。とあり、かつまた「先代旧事本紀」においては、この三女神が宇佐国造の祖..
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八幡神雑想④八幡神の変貌というか改造というか無害化というかについてはこちらをはじめ何度か考察していますが(もちろんそれだ全部わかった気になって何かを決めつけるつもりはありませんが)。 しかしそもそもそ..
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