記事「古典文学」 の 検索結果 231 件
-
古典文学探訪48 「石山寺」3 「更級日記」の作者の見た奇妙な夢写真は石山寺の境内にある奇岩を撮ったもので、石山寺という名前の由来になりました。硅灰石からなりたっています。 「更級日記」の作者である菅原孝標女も石山寺に参籠しています。やはり「石山寺縁起絵巻..
-
古典文学探訪47 「石山寺」2 「蜻蛉日記」に見る舟での石山寺参り・「嘆きつつ」の歌写真は石山寺と京阪石山寺駅との道の途中から瀬田川を撮ったものです。瀬田川と歩道の間に車道が通っていますし、遠くの方に見えるのが瀬田大橋です。 「蜻蛉日記」の作者が石山寺までたどったコースを見てい..
-
古典文学探訪46 「石山寺」1 「蜻蛉日記」の作者が寺で見た夢写真は石山寺の第一梅園でこの25日に撮ったものです。丁度梅の花が満開でした。 石山寺は平安時代から観音信仰の地として栄え、古典文学の舞台となってきました。「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母は石山..
-
古典文学探訪45 歌枕「石田(いわた)の杜(もり)」 かつては田んぼの中の森写真は京都伏見の石田の杜にある天穂日命(あめのほひのみこと)神社です。今はこのあたりの地名は石田と書いて「いしだ」ですが、かつては「いわた」と呼ばれていました。この神社の奥に山科川が流れています。 ..
-
古典文学探訪44 「古事記」の八瓜入日子王 父の故郷、岐阜県本巣市屋井との関連私の父の実家は現本巣市糸貫町屋井(やい)にありますが、母の実家の大野町黒野とはそれほど距離は離れていません。子供の頃は歩いて黒野から屋井まで行ったものですが、子供の足だけにひどく時間がかかった気が..
-
古典文学探訪43 「日本霊異記」 岐阜県大野町のキツネ女房説話数年前に岐阜県揖斐郡大野町にある石田善能寺をオンライン三成会の人二人と訪ねたことがあります。その寺は関ヶ原の戦いの後、石田三成の弟が逃げ込んだところであり、その子孫が代々住職を務められています。その..
-
古典文学探訪42 「松蔭日記」3 柳沢吉保の動作には敬語が用いられている柳沢吉保が山荘の桜を見に行ったのが3月末日ですから、旧暦では春の終わりの日であり、4月から夏になります。その境目の日であることに町子は着目し、それを歌に詠みましたが、吉保との会話の中で、明日からは夏..
-
古典文学探訪41 「松蔭日記」2 大空をおおう袖と散る桜京大の入試問に出題された「松蔭日記」の本文の続きです。筆者の町子は「大空におほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」という古歌の一部を引用し、桜の花を見に行けない柳沢吉保の気持ちを思いやっていま..
-
古典文学探訪40 正親町町子「松蔭日記」1 京大の入試問題でも出題二年前の京大の入試問題は江戸時代に書かれた「松蔭日記」から出題されました。その日記を書いたのは柳沢吉保の側室だった正親町町子という人です。柳沢吉保は徳川五代将軍に側用人として仕え、政権の実験を握った..
-
古典文学探訪39 「連作短歌・浦島伝説・桃太郎伝説・竹取物語」これも以前ブログで触れた浦島伝説と桃太郎伝説、及び「竹取物語」をテーマにした連作短歌です。 浦島の釣りたる亀が妻となり常世(とこよ)に連れて行きたるが原話か 子供向けの話に作らる助け..
-
古典文学探訪38 「史記・項羽の最期」2 哀れな末路項羽の最期は潔いものでしたが、その後は悲惨でした。傷を負った項羽は劉邦軍の中に、昔馴染みでかつては項羽の味方だった呂馬童を見つけますが、呂馬童は項羽から目を背けて、劉邦軍の王翳に指さして「これが項羽..
-
古典文学探訪37 「史記・項王の最期」1 死を前にしての項羽の笑いと近藤勇の笑い石田三成の戒名に「江東院」と付けられているのは、前にも触れたように、近江の東で生まれ育ったという意味と、江東の地から挙兵したものの、最後は劉邦によって滅んだ項羽を意識してのことでした。戒名をつけたの..