記事「墳墓」 の 検索結果 55 件
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唐人墓の墓碑・恩納村仲泊集落には琉球の古代から中世、近世に至る歴史が詰まっていた。恩納村博物館の前に整備された広場があって、その一角に「唐人墓の墓碑」が建っている。道光四年(中国清の年号で1824年)に、中国福建省泉州府同安県の呂安ら32人を乗せた商船が暴風にあって遭難。26人が..
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義本王の墓(ぎほんおうのはか)・ 伝承される舜天王統最後の国王、悲劇的な最期だったようだ。義本王の墓は、沖縄本島最北端の辺戸集落にある。辺戸のことを方言ではフィルと発音するそうで、辺土とも書いたようだ。文字通り、その昔は首里から遠く離れた辺境の土地であったろう。今では国道58号線が通じ、..
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アカイ玉御墓(あかいたまうはか)・神話の王統天孫氏の墓だとも伝承されている。北中城村安谷屋集落の東外れ、タカラムイ(宝森)にあって、地元では「アカヌウハカ」と呼ばれているそうだ。辺戸天孫氏王統に関りのある墓と伝承され、今帰仁天孫氏王統の墓もあるらしいが、何処にあるのか分から..
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大米須親方之墓 (うふこめすうぇーかたのはか)・米須三代に亘る伝承が残る墳墓である。大米須親方之墓は、本部町、渡久地交差点近くの崖下にあり、米須親方(うぇーかた)、米須里主(さとぅぬし)、米須子(しー)の、米須三代に亘る伝承が残る墳墓である。以下、分かりにくいので、仮に米須親方を初..
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健堅比屋之墓(けんけんひやのはか)・その昔、琉球馬は明国に輸出されていた。健堅比屋之墓は、本部町健堅集落、瀬底大橋の東詰に近く、国道449号線沿いの山際にある。歩道から直接上って行く石段が通じているが、訪ねた日、熟年のご夫婦が、拝みの準備で、茂った雑草の刈り取りをされてい..
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久志若按司の墓(くしわかあじのはか)・組踊り、「久志の若按司」の主人公が祀られている。按司とは、琉球古代における首長・豪族の呼称で、久志に居城を構えた久志按司の二代目が、久志若按司である。 宜野座村から、国道329号線を北上して名護市に入ると、最初の集落が久志である。集落に通じる..
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伊芸の僧侶墓(いげいのそうりょばか)・補陀落渡海を実践した捨身行者かと・・・、妄想でした。金武町(きんちょう)伊芸の集落に、僧侶が葬られた墓があると云うので訪ねることにした。金武町には16世紀の半ば、紀伊の国、那智から補陀落渡海を実践し、金武海岸に漂着した捨身行者、日秀上人が創建したと伝..
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護佐丸(ごさまる)祖先の墓・道標が次々と現れ、道筋に不安なく訪ねることが出来た。那覇から120系統のバスで、凡そ1時間15分、恩名村の山田バス停で下車した。通りを隔てた向かい側に、山田グスクへの道標が建っていた。58号線の信号を渡った所にも、「歴史の道」、「山田グスク・護佐丸父..
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尚巴志王の墓(しょうはしおうのはか)・隠し墓のようだ。人里離れた谷間に密かに祀られていた。尚巴志(1372~1439年)は、琉球で最初の統一王朝を樹立した国王である。墳墓は、読谷村の伊良皆集落にあり、前々から、是非に訪ねたいと思っていた。事前に情報を集め、地図で場所を確認したら、米軍施設..
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阿麻和利の墓(あまわりのはか)・すぐ近くに「酒場・護佐○」があった。一瞬、ニヤリ。事前にガイドブックで調べたら、古堅小学校の北方50mの所にあると書いてあった。古堅小学校の場所は楚辺集落で、古堅集落ではない。てくてく歩きながら、地図を頼りに拝所を巡っている身には、何とも紛らわしい..
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大湾按司之墓(おおわんあじのはか)・伝承だが初代大湾按司は仲昔今帰仁城主丘春の孫だと云う。国道58号線を嘉手納町から北に向かって歩くと、読谷村との境界を流れる比謝川を渡る。直ぐに又、比謝川の支流になる長田川を渡ると、右手に緑に覆われた森がある。「ウフグスク」と呼ばれる丘で、ここに大湾按司..
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仲昔今帰仁城主丘春之墓(なかむかしなきじんじょうしゅおかはるのはか)・見つけたぞっ!!今帰仁、中北山時代の第四代城主、丘春の墳墓を訪ねて、再び読谷村の泊城公園にやって来た。先日、探しあぐねて一旦は諦めたものの、心残りなので、もう一度探索することにしたのだ。 公園内に渡具知城跡があ..
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