記事「壱岐」 の 検索結果 303 件
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元寇古戦場 壱岐 新城古戦場 千人塚 (2023 対馬壱岐紀行)文永の役 文永11年(1274年)に壱岐の西海岸浦海に上陸した蒙古軍は 壱岐守護代平景隆の館を目指した。迎え撃つ平景隆軍は、わずか100騎あまりで壱岐各地で戦ったが全滅したという。 千人塚と..
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河合曾良の墓に参る(壱岐勝本・能満寺)(2023 壱岐対馬紀行)河合曾良といえば、芭蕉とともに「奥の細道」を旅した俳人である。 今回の旅の下調べをしていて、河合曾良の墓が壱岐の勝本にあるという。 このようなところに本当に曽良の墓があるのだろうか。 あるな..
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2023年度 日本史B 本試験 解答番号7令和5年度(2023年度)共通テスト 日本史B 本試験 解答・解説 第2問A-1 解答番号7 正解:2 配点:3 解説: 選択肢1 誤り。 縄文時代の土偶は女性をかたどった..
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一大国の壱岐 と 韓人下関市立考古博物館の学芸員によれば、一大国の王都とされる原の辻遺跡の船着き場の石垣は朝鮮式の造りという。 魏志倭人伝では対馬も壱岐も倭国領である。これは台与(壱与) 以降のことだと思われる。 ..
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高島万葉集の高島 275 勝野原 1171 三尾勝野 1172 高島の香取の浦 ⇒ 生月町 壱部浦 香取 (生月町役場付近) 1238 竹島 阿戸白波 五百入 1690 阿渡川..
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御金高山口県下関市の福江の小字に「王仁」。 王仁(岩波文庫 書紀2巻 P206)は百済の人である。 壱岐勝本町の立石南の小字に「金高」がある。どんな場所か知らないが、 万葉集3293に み吉..
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邪馬台国はなかった ②倭の場所は2か所 鹿児島県加世田市の万世地区(隋書倭国伝の邪靡堆) 壱岐―「大倭」の地である。雄略紀などの倭は壱岐。 加世田市の宮原の小字「万一畑」→万葉集の聖地(発祥地) ..
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刺竹の大宮万葉集によれば倭王の宮殿は「刺す竹の大宮」である。真竹や篠竹を編んで作るのだろう。考古学の遺跡として見つけにくい。 参照 『忘れられた島』 岩波写真文庫復刻版 の家作り 魏志倭人伝によれば壱岐..
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壱岐は日本の首都だった感動の邪馬台国九州説 壱岐は日本の首都だった。 雄略紀(岩波文庫 日本書紀3巻 P60末~62) 吉備上道采女大海が新羅・百済から日本に帰ってきた。 角国(周防国都濃郡)とされる柳井市の茶..
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妻ヶ島壱岐の石田にある妻ヶ島は無人島である。 淤能碁呂島、水蛭子、淡島だろう。 国土(くに)生みの地は石田のあたり。
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竺紫の君 石井古事記の竺紫は欽明紀の竹斯嶋(書紀3巻 P314)で、東方領物部莫奇武連の東方は対馬である。東(あつま)が対馬なのは書紀2巻 P96の陸奥国が対馬の竹敷だから。 1402年の有名な朝鮮の地図「混..
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香椎香椎は勝本町の古代の可須郷も候補地になる。 平凡社の地名辞典 長崎県巻 P795上 によれば、可須は香椎に通じる。勝本町に香椎大明神がある。 勝本町に志賀がある。 串山ミルメ浦遺跡では製塩が..
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