記事「大田南畝」 の 検索結果 45 件
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児雷也 4 鬼武・十年行方知れず(承前) 読者の皆さんも、写楽研究家たちにとって無くてはならない唯一の同時代資料に『諸家人名江戸方角分』という写本があることはご存知かも知れませんが、その「浅草」の項に「『戯作者』印 鬼武 千光院..
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写楽の探し方 6 能役者の余技なのか(承前) 一方、江戸幕府は三百数十名もの能役者を抱え、その実態は、 幕府や諸藩は 能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもありました。 頻繁に出される厳しい通達によって、技芸の鍛錬と伝統..
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写楽の探し方 3 幕府の調査資料を精査(承前) 三つ目の手がかり=江戸幕府が終焉し、明治新政府となった折、引き継がれた「公文書」は夥しい数にのぼるものと思われますが、その中には、江戸期に調べられ報告された「個人情報」も含まれているはず..
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写楽の探し方 1 能を管理した幕府例えば、江戸歌舞伎の世界、取り分け五代目市川団十郎(市川鰕蔵)とは極めて懇意、息子・徳像の初舞台を祝って、わざわざ狂歌集(『江戸花海老』1782年)を仲間内など多くの人々に一冊ずつ贈るほどの仲だ..
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小説・写楽 4 きついお咎めの後(承前) 芝居小屋を度重なる火事騒ぎで焼失、その都度金主・地主の間を飛びまわり、米搗きバッタのように拝み倒して資金繰りに目処をつける毎日だった。今回も小屋の再建になんとか目鼻を付け、主だった役者連..
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写楽・旧考 6 長喜も真似た写楽(承前) このページの最初に紹介した「写楽=能役者説」は、江戸の町名主・斎藤市左衛門(号は月岑・げっしん。1804年生まれ)が「追補」の中で次のように述べている文言が基盤になっているものです。(つ..
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写楽・旧考 5 増補浮世絵類考(承前) 『南総里見八犬伝』の作者としてお馴染みの曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で、一九について「寛政6年の秋頃より蔦屋の食客となり、浮世絵に使用する用紙のにじみ止めのため、明礬(みょう..
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写楽・旧考 4(承前) 「浮世絵類考」(うきよえるいこう、大田南畝の『浮世絵考証』を複数の人々が書き継いだ写本)という書物は、松本幸四郎等を題材とした写楽の作品について『あまりに真に描かんとて、あらぬさまにかき..
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松平定信と写楽 9 月岑の情報源は?(承前) 式亭三馬の書き込みの検証は以前何度も行っていますのではしょりますが、物書きとしての「眼(見識)」を持っていた彼は、頭のどこか片隅で『この写楽斎は東洲斎写楽とは別人なのかも知れない』と一抹..
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松平定信と写楽 8 地蔵橋周辺の住人(承前) 嘉永六年版絵図によれば「地蔵橋」の前で道路が交叉し、元板倉邸だった敷地には北から順に①飯尾藤十郎(北町同心)、②斎藤与右衛門(十郎兵衛の子息)、③村田治兵衛(本人は既に他界)、④中田円助..
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松平定信と写楽 7 地位に拘る南畝(承前) 別項の『方角分』分析でも南畝の「村田春海に対する、余所余所しい」姿勢を取り上げましたが、今回上の人脈図を作成してみて、南畝の態度の原因が恐らく松平定信(に象徴される権力機構)の存在、影響..
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松平定信と写楽 6 「方角分」への疑問(承前) 一方「同所」を岡田藤助の住む「お玉が池」だと解釈すると「もと神田の住人」という先の説明書きとも整合しますし、何より彼の養子先である谷口鶏口の住宅が神田お玉が池にあって、彼の教え子斎藤月岑..
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