記事「人生」 の 検索結果 25687 件
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人の苦しみをわが苦しみに健康体の人には病人の苦しみはわからないといわれるように、他人の苦しみをわが苦しみとしてともに悩むということは、なかなかできないものだ。仏には「少病少悩」といわれるけれども、一切衆生の異の苦しみをわ..
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人によって受け取り方が違う仏の説法は一つであるのに、それを聴く者の機根によってさまざまに理解されている、ということだ。同じ話を聴いても、人それぞれによって受け取り方が違うということは、今でもよくあることだね。 どんなに立..
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苦を離れるのではなく乗り越えるむろん、釈尊は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。苦の人生を離れようとするのではなく、生老病死の苦を明らかにみて、それを克服しようとした。そこに仏教の真髄があった..
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非物質的な欲求もある子宮内の生活は、完全に満足すべきもので、欲求不満を生ずる点はない。さらに、生後一年以内の生活もまた基本的に満足され、なんら欲求不満をもたない方がよいことは、今では一般に認められた事実である。禁欲主義..
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冥伏させる真、善、美、健康、知能に、憎しみや恨みを抱いたり、羨望をもったりすることは、一般によくみられるところであるが(「反対価値」)、これらは大部分(まったくとはいわないまでも)自尊心を失うことをおそれて生..
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ミリンダ王問経自分の目で見、触れることのできるものだけが真実であるという考え方は、他人の認識の不確かさを責めるには有効であっても、けっして正しいとはいえない。じつは自分自身、見たことも触ったこともないものであって..
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釈尊五十年の説法とは釈尊五十年の説法は、何のためであったか。それは、生老病死の苦悩に沈む大衆を救うためのものであった。出家修行者であれば、つねにその原点を忘れることなく、大衆の幸せのために一身を捧げる決意でなければなら..
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人間としての生き方を全うするまた、釈尊の説法に対する受け止め方としても、出家僧と一般信者とは、やはり違うものがあったのではないかな。いわゆる「声聞」の弟子は、仏の教えを直接に聴いて、つねに自己の人格形成をめざしていた。釈尊なき..
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経文の一字一句、すべて金文字の仏説とくに釈尊に関して、もう一つ忘れてはならないことは、経文にもあるように、釈尊の説法は、すべて衆生をして仏道に入らしめんがためのものであったということです。したがって経典の結集者も、単に釈尊の言行録を..
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極端な戒律主義は斥けた野崎:出家僧の二百五十戒等と比較し、一般在俗信徒には、いわゆる五戒が強調されています。不殺生戒、不偸盗戒、不妄語戒、不邪淫戒、不飲酒戒がそれですが、これも、こうした戒を守ることが修行というのではなく、..
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マハーカーシャバ修行ということについては、また釈尊の教えを実践するということについては、その姿勢において、だれにも真似のできないものを持ち合わせていたのでしょう。 しかし、厳格な人、姿勢について厳しい人というも..
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釈尊の孤独とは悟達者には悟達者自身の苦悩がある。それは、畢竟するに悟達者自身にしか悟達の内容はわからないからです。これはつねに人類の先覚者、教師が肌身で感じた問題でしょう。獅子は孤独なのです。それは、「獅子のみが..