記事「日経新聞」 の 検索結果 2562 件
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『登山大名』(157~161)わたしは早速、家老の藤兵衛に谷にある二宇の修築を命じた。 「銅鐘と石像だが、人目につかぬよう、速やかに運ばねばならぬ」 「それこそ、大力宇目右衛門にはうってつけの役目かと……」 「ふむ..
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滝本太郎、発狂!!!!! ~ どことなくなんとなく快哉を覚える今般の広島高裁判決先ずは。 一昨日のハナザクロのリベンジから。 どう?少しは焦点があったかと思うんですが… っと噺行きましょう。 プライベートなこというなら、陽気のせいか(?)何かブルーが入ってましてね..
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『登山大名』(151~156)「では参ろうか」 天南和尚が参ろうといったのは西隣の英雄寺ではなく、東隣の高流院だった、ここにはさらに瞠目すべきものが隠されているという。 天南和尚は一行を導いて本堂へ入り、本尊の釈迦..
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『登山大名』(145~150)蔵人が去ったあとも藤兵衛はその場を動かず、なにか話したそうな顔をしている。 「おぬしへの遺言は耶蘇教だろう」 古田家は切支丹と縁が深い。 「殿は家督を継がれるや、早々に御条目を出され..
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『登山大名』(139~144)承応二年、父の訃報に茫然としつつも家督相続に付随する諸事をつつがなくこなしたわたしは、翌年の四月下旬に江戸を発ち、五月下旬には領国岡の地をふんだ。 四十歳の新藩主、中川久清として――。 ..
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『登山大名』(133~138)祖父秀成は、父親の中川清秀が賤ヶ岳の合戦で戦死し、兄の秀政が家督を継いだのち、豊臣秀吉から虎姫を正室に迎えるよう命じられた。虎姫の父親はなんと清秀を討ちとった佐久間盛政で、賤ヶ岳の合戦で敗け..
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『登山大名』(127~132)第五章 遺言 わたしにとって父久盛は、絶対的な支配者であり、目の前に立ちはだかる山でもあった。 子供のころのわたしは父の顔色をうかがい、嫌われまいと必死だった。 唐津藩では城主が酒乱の..
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『登山大名』(121~126)「瀬兵衛どの。御玄関まで送りましょう」 そんなことは初めてだったので驚きながらも、うながされるままに腰を上げた。 迷路のような廊下をとおり、御玄関の式台へ出る手前で母は足を止めた。こ..
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『登山大名』(115~120)十月の終わりに、佐代は男児を出産した。 「母子とも、ご壮健にあられまする」 左源太はわたしの耳許でささやいた。 「約束したのだ、生まれたら逢いにゆくと」 「お二人のお命を危険にさら..
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『登山大名』(109~114)佐代には生母のようなおもいはさえまいと、わたしは胸に誓っていた。 母は佐代を、口実として、宇右衛門の縁者にあずけた。 先々どうするかは、父が江戸へもどり、わたしの婚姻が定まってからに..
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『登山大名』(103~108)「わしは十四のとき、駿府で権現様より姪御の姫さまと夫婦になるよう命じられた。同席していた父は九死に一生を得たかのごとく安堵され、それがわかったので、御家存続のお役に立てたかと、このわしもたいそ..
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『登山大名』(97~102)第四章 一雲 寛永十年。濠の水面に花が散りそそぎ、花筏をぬうように水鳥が餌をついばむ季節、十九になったわたしは母方の従弟の酒井忠清と、和田倉御門の南にある岡山池田家の上屋敷を訪ねた。 池田..