記事「中原中也」 の 検索結果 236 件
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2548 人間にもほしい「瞬膜」 悲しみと涙の連鎖「3・11」人は一生で何度涙を流すのだろうか。それぞれの年齢、性、生活環境、性格などによって千差万別なのかもしれない。いずれにしても、人生は涙とは切っても切れない縁があるのだ。今日は3・11から13年目。あの大..
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2537 遠い国から近い国での戦争 ウクライナ侵攻2年(開花が近いモクレン。芽が膨らんでいる)「遠い国には戦があり…… 海には難破船の上の酒宴(さかもり)……」と書いたのは石川啄木(『心の姿の研究(3)』の「事ありげな春の夕暮れ」)だ。啄木より21歳後輩..
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中也の青春 5 「痴人の愛」ナオミ(承前)「上海での永住」という望みを持っていた富永太郎だが、それはならず、二カ月ばかりの滞在で帰国、一端は自宅へ戻ったが、旧制第二高等学校の同級生である正岡忠三郎の下宿先に富永がやってくるのは1924..
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中也の青春 4 谷崎と映画俳優たち(承前) 前日から箱根で静養していた谷崎夫婦は、いつもの定宿から小涌谷の新しいホテルに移り、翌九月一日昼前、もとの箱根ホテルに戻るバスに乗り合わせていた時、関東大震災に遭遇、その日は野宿し、なんとか..
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中也の青春 泰子と映画中也に詩の何たるかを、そして文芸・芸術全般にわたって貴重な生の意見を真摯な態度で明確に示してくれたのは、富永太郎(1901~1925.11)だった。彼は元々理系の方面に進む意向を持っていたのだが、志半..
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2508 初雪へ祈る被災地の復旧 中原中也の詩とともについ先日(13日)の夕方、私の住む地域で今冬の初雪が降った。久しぶりに遠出をして電車を降り、駅舎から出ると、ボタン雪が私に向かってまとわりつくように風に舞っていた。中原中也(詩集『秋』の「生い立ち」..
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16 何になろうか(承前) 中原の父親・謙助には軍医の経歴があり、その任地の一つが金沢だった。彼の年譜によれば謙助は明治四十五年九月に着任しており、それから、ほぼ一年半を金沢で生活していた。中也は京都に出る直前、次の..
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15 冨倉、富永そして正岡(承前)中也の短すぎる生涯の全てを知り得る立場に居るものからすれば、彼の一生にとって決定的な他者との「出会い」が京都時代に幾つも連鎖的に起こった事実は、何やら尋常では無さそうにも思えるが、誰かが、予め..
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14 答案に創作詩(承前)中也は強運の人、幸運の持ち主だったのかなぁ、と思うことがある。次から次へと彼の周囲には好意的な人たちが吸い寄せられるように集まり、中原は、その中心付近に居て台風の目のような存在になってゆく。 ..
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13 ダダの手帖(承前)高橋新吉の詩集にちりばめられた作品は、中也の詩心を燃え上がらせた。中也の試作を語る文章で頻繁に引用されるダダ詩は、彼が友人の評論家・河上徹太郎(1902~1980)に預けていたノートに書かれて..
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12 運命の出会い(承前)中也の弟、中原思郎さんの回想によれば、 最初の帰省は立命館時代の夏休みであったように思う。(中略) 京都の中学時代は春・夏・冬の休みごとに必ず帰った。 落第せず四年修了したから、学校..
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10 ダダの詩集(承前) 高橋新吉はアルバイトで生活費を稼ぎながら書き溜めた詩作品を謄写版の冊子にして持ち歩き、出来れば出版したいと考えていた。その希望は大正12年(1923)2月に叶う事となる。『ダダイスト新吉の..
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