記事「中原中也」 の 検索結果 231 件
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2508 初雪へ祈る被災地の復旧 中原中也の詩とともについ先日(13日)の夕方、私の住む地域で今冬の初雪が降った。久しぶりに遠出をして電車を降り、駅舎から出ると、ボタン雪が私に向かってまとわりつくように風に舞っていた。中原中也(詩集『秋』の「生い立ち」..
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16 何になろうか(承前) 中原の父親・謙助には軍医の経歴があり、その任地の一つが金沢だった。彼の年譜によれば謙助は明治四十五年九月に着任しており、それから、ほぼ一年半を金沢で生活していた。中也は京都に出る直前、次の..
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15 冨倉、富永そして正岡(承前)中也の短すぎる生涯の全てを知り得る立場に居るものからすれば、彼の一生にとって決定的な他者との「出会い」が京都時代に幾つも連鎖的に起こった事実は、何やら尋常では無さそうにも思えるが、誰かが、予め..
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14 答案に創作詩(承前)中也は強運の人、幸運の持ち主だったのかなぁ、と思うことがある。次から次へと彼の周囲には好意的な人たちが吸い寄せられるように集まり、中原は、その中心付近に居て台風の目のような存在になってゆく。 ..
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13 ダダの手帖(承前)高橋新吉の詩集にちりばめられた作品は、中也の詩心を燃え上がらせた。中也の試作を語る文章で頻繁に引用されるダダ詩は、彼が友人の評論家・河上徹太郎(1902~1980)に預けていたノートに書かれて..
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12 運命の出会い(承前)中也の弟、中原思郎さんの回想によれば、 最初の帰省は立命館時代の夏休みであったように思う。(中略) 京都の中学時代は春・夏・冬の休みごとに必ず帰った。 落第せず四年修了したから、学校..
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10 ダダの詩集(承前) 高橋新吉はアルバイトで生活費を稼ぎながら書き溜めた詩作品を謄写版の冊子にして持ち歩き、出来れば出版したいと考えていた。その希望は大正12年(1923)2月に叶う事となる。『ダダイスト新吉の..
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9 発狂事件(承前)時間を少し遡り、中也の生活空間から外れます。 詩人で小説も書いた高橋新吉(1901から1987)は中原より六つ年長で、詩人の富永太郎と同じ年に生まれている。地元愛媛県の学校を出てすぐ、文学の..
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8 家出(承前)中也より三歳年上の長谷川泰子(1904~1993)は、地元の私立女学校を卒業した後、しばらくの間、自宅で大人しくしていたようだが、1923年の八月になって、以前から計画していた行動を実行する。..
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7 京都(承前) 中原は後年『詩的履歴書』の中で、当時を振り返り、 生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり と書き残しているのだが、実際の転校後の日常は大変だったようだ。恐らく、その人も地方から..
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5 落第(承前)年が改まり大正十二年(1923)に入っても中也の短歌投稿は続けられた。また、二月には地域の文芸誌『白梅』を主宰していた毛利碧堂に、文学で「身を立てる」ことについて意見を求める書簡を送ったことが..
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4 西光寺行き(承前)1922年4月、中也は何んとか三年への進級をはたした。京都大学に進んだ家庭教師の後任には、村重という人が選ばれてきたのだが、実は、この高校生も文学志向があり、短歌なども創作していた。 中原は..
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