記事「中原中也」 の 検索結果 236 件
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9 発狂事件(承前)時間を少し遡り、中也の生活空間から外れます。 詩人で小説も書いた高橋新吉(1901から1987)は中原より六つ年長で、詩人の富永太郎と同じ年に生まれている。地元愛媛県の学校を出てすぐ、文学の..
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8 家出(承前)中也より三歳年上の長谷川泰子(1904~1993)は、地元の私立女学校を卒業した後、しばらくの間、自宅で大人しくしていたようだが、1923年の八月になって、以前から計画していた行動を実行する。..
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7 京都(承前) 中原は後年『詩的履歴書』の中で、当時を振り返り、 生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり と書き残しているのだが、実際の転校後の日常は大変だったようだ。恐らく、その人も地方から..
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5 落第(承前)年が改まり大正十二年(1923)に入っても中也の短歌投稿は続けられた。また、二月には地域の文芸誌『白梅』を主宰していた毛利碧堂に、文学で「身を立てる」ことについて意見を求める書簡を送ったことが..
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4 西光寺行き(承前)1922年4月、中也は何んとか三年への進級をはたした。京都大学に進んだ家庭教師の後任には、村重という人が選ばれてきたのだが、実は、この高校生も文学志向があり、短歌なども創作していた。 中原は..
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3 芸術と短歌(承前)中也の学業成績が芳しくなかったことから、中原家では現役の高校生を家庭教師として寄寓させた。二年生になった中原は弁論部に入り、その舌鋒を磨いた?1921年の5月、中也を愛した祖父・政熊が他界する..
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2 奇跡の子(承前)中原中也は明治四十年(1907)に生を受けているのだが、両親の結婚後七年目にして初めて授かった男の子であり、中原家としては実に半世紀ぶりに誕生した男子であった。当然、周囲から有り余るほどの祝福..
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1 中学校詩人の中原中也は、大正九年(1920)四月山口師範付属小学校から、旧制県立山口中学校に進学する。入学時の成績は優秀で、合格者の中で「十二番」だったと伝えられている。当初は良く勉強したものと見え、クラス..
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2349 旅情感じるファド 中也の詩に惹かれて夏が来た。 空を見てると、 旅情が動く。 中原中也の未刊詩篇の一つで(夏が来た)という仮のタイトルが付いた詩の冒頭部分です。にほんブログ村
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蝶と古代人と霊魂作家であり、評論・随筆も書いた丸谷才一(1925~2012)が、ある文章の中で面白い見方を披露している。それは『男もの女もの』に収録されている、『菜の葉に飽いたら桜にとまれ』で披露されているもので、丸..
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2023年2月11日 歴史関連ニュース2023年2月11日 歴史関連ニュース 中原中也「朝の歌」直筆全文みつかる 学芸員「洗練の過程見える」:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR2..
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2196「くらい平和と茶色い戦争」立原道造と中原中也の詩を思う時くらい想念を軽蔑しながら、私の幸福と平和は、いつもくらい。 くらい平和のなかで、私の笑ひはいつも痩せてゐる。 立原道造(1914~1939)の『くらい想念を』という詩の冒頭だ。第1次世界大戦が始..