記事「戊辰戦争」 の 検索結果 566 件
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清水屋旅館跡会津若松市の七日町通り、大東銀行会津支店がある場所が、清水屋旅館跡。 吉田松陰が東北紀行の途中に、また戊辰戦争の際には新選組副長土方歳三 が宿泊した旅館で、明治には清水屋事件が起きている場所でもあ..
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戸の口堰洞穴天保年間に会津平野の灌漑用水として猪苗代湖より通水した洞穴。 戊辰戦争の折、 白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため、戸の口原から 飯盛山に向かう途中、この洞穴を通ったとのことです。
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白虎隊自刃の地若松城下に迫りつつある新政府軍を迎え撃つため、白虎隊二番隊は戸ノ口原 に出陣しましたが、決定的打撃を受けて潰走し、飯盛山へと落ち延びました。 飯盛山から城下の火災を目にした総勢20名は、ここで自刃..
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戸ノ口原古戦場慶応4年 (1868年)8月22日、新政府軍は母成峠の藩境を突破し、 「戸ノ口十六橋」を占拠して、会津城下への侵入の動きを見せました。 この地で、これを迎え撃とうとした白虎隊も苦戦し、撤退を余儀な..
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十六橋猪苗代町と会津若松市に跨る日橋川に架かる橋で、旧若松街道が通る橋。 名前の由来は、弘法大師が16の塚を作り橋を作ったとのことからだそうです。 慶応4年(1868年)に、会津戦争「十六橋の戦い」の舞..
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母成峠古戦場慶応4年(1868年)8月21日に行われた、母成峠の戦いの古戦場。 会津藩境の母成峠を守る旧幕府軍800が、新政府軍2,200と 戦いましたが、兵力及び兵器の差で勝てず、旧幕府軍は敗走しました。
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内藤四郎兵衛戦死之地碑再建された二本松城箕輪門の手前に建つ、内藤四郎兵衛戦死之地の碑。 内藤四郎兵衛は、戊辰戦争時の二本松城の大城代で、落城の際、 城門を開き敵軍に切り込んで獅子奮迅の末、壮絶な最期を遂げたそうです。
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丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑戊辰戦争で、慶応4年(1868年)の7月に、二本松城は落城しました。 その際、丹羽和左衛門(城代)と安部井又之丞(勘定奉行)は共に自尽。 両人の供養碑が、天守台の近くに建てられています。
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戊辰之役東軍戦死者之碑(妙教寺)京都市伏見区納所北城堀の妙教寺にある、戊辰之役東軍戦死者之碑。 子爵榎本武揚書で、明治40年に京都十七日会により建立されたそうで、 妙教寺では毎年2月4日に、本堂で法要を営んでいるとのことです。
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弾痕(伏見魚三楼)慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いで新政府軍と幕府軍が激突。 新政府軍陣営の御香宮と、幕府軍陣営の伏見奉行所の中間に位置していた 料亭「魚三楼」の表通りに面する出窓の桟と柱に当時の弾の..
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伏見奉行所跡慶應4年(1868年)正月3日の鳥羽伏見の役で、会津藩兵、新撰組隊士たち 幕府側は伏見奉行所を拠点にしましたが、御香宮神社から大砲による砲弾が 撃ち込まれて奉行所は炎上、幕府側は壊乱し撤退していき..
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伏見の戦跡碑京都市伏見区の御香宮神社境内にある、鳥羽伏見の戦いの跡を示す碑。 慶応4年(1868年)正月3日、御香宮に陣を構えた薩摩藩将兵800人と、 伏見奉行所に入った会津藩を主とした幕府軍1500人が、激..