記事「戊辰戦争」 の 検索結果 566 件
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箱館奉行所箱館奉行所は、元々は箱館山の麓にありましたが、1864年(元治元年)、 五稜郭完成とともに現在地に移動しました。戊辰戦争最後の激戦となった 箱館戦争では、旧幕府軍の拠点となりました。
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新選組最後の地新選組は文久3年(1863年)に京都の壬生で結成されました。その後、京都 警備で活躍しましたが、戊辰戦争で敗れて北上。最後は、函館弁天島砲台を 守備したものの、ついに降伏し消滅しました。
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河井継之助終焉の地河井継之助は、長岡城下の戦闘で重傷を負い、再起を図るため、八十里峠 を通って会津へと向かいましたが、ついに塩沢村(現・福島県只見町)で落命。 慶応4年8月16日(1868年10月1日)のこと、 享..
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河井継之助終焉の間河井継之助は、長岡城下で被弾し重傷を負い、会津へと運ばれて行きました。 しかし、現在の南会津郡只見町まで来たときに、傷が悪化してついに落命。 継之助終焉の間が、河井継之助記念館内に移築保存されてい..
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小千谷会談の間北越戊辰戦争開戦の直前、長岡藩の軍事総督河井継之助と 新政府軍の軍監岩村精一郎が談判したのが、小千谷にある慈眼寺。 その会見の間が、現在でも慈眼寺に保存されています。
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榎峠古戦場碑榎峠は長岡と小千谷の間にある峠で、北越戊辰戦争の時の激戦地。 開戦前は新政府軍が占拠していましたが、開戦直後に同盟軍がこれを奪取。 県道589号線沿いに、榎峠古戦場パークがあり、そこに碑があります..
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物見の松跡北越戊辰戦争の際、新政府軍がこの地に本陣を置いたとのこと。 その時に長岡方面の情勢を探るため、兵士が松によじ登り、 敵情をみたことから「物見の松」と名づけられたそうです。
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草生津渡し跡信濃川を渡る渡船場跡で、現在は長生橋が架かっています。 慶応4年(1868年)5月19日未明、長州藩決死隊約100名は、信濃川西岸 のこの付近から強行渡河し、中島に上陸を果たし、長岡城を攻撃しまし..
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昌福寺新潟県長岡市にある曹洞宗のお寺で、山号は万融山。 北越戊辰戦争では藩の治療所として使われ、また、その後、明治2年に 小林虎三郎がこの寺の本堂を借りて国漢学校を開校したところです。
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維新の暁鐘新潟県長岡市の西福寺境内にある梵鐘。 慶應4年5月、新政府軍の来襲を知らせるために、この鐘が乱打されました。 近代の夜明け告げたことから、「維新の暁鐘」と呼ばれているそうです。
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西軍上陸の地慶応4年(1868年)の5月19日早朝、新政府軍は洪水の信濃川を 強行渡河して、長岡城を攻撃する策を立て、ここ中島に上陸。 長岡軍は必死に防戦しましたが、総退却し、ついに長岡城は落城しました。
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開戦決意の地越後長岡藩の家老河井継之助は、武装中立論を唱えて戊辰戦争の局外 に立とうとしましたが、新政府軍との間で行われた小千谷会談は決裂。 河井は前島を守備していた親友の三島億次郎を訪ね、開戦を決意をしまし..