記事「旧日本軍」 の 検索結果 255 件
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian ..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、日本軍には..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)ファクファク大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38) ヤムール湖第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37) ハベマ湖開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36 ロンベバイ湖太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保な..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35 ウィッセル湖飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第1..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)ワクデ島豊嶋房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の..