記事「旧日本軍」 の 検索結果 255 件
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロンソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ163,000人の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソロン県から分..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)ソロンミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)ソロン昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマ..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)イドレ第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)イドレマノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月~11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとす..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)イドレ“絶対国防圏”----日本と南方資源要域及び両者間の連絡地帯を防衛するための、必要最小限の要域圏であって、それより内には絶対に敵の作戦拠点獲得を許さないとする考え方(『戦史業書 西部ニュー..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)マノクワリ真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)マノクワリ「上司より指示せられた処では、軍の決戦時期が到来したならば約二個飛行師団を軍の正面に使用することとなるであろうとのことであった。然るに事実は余りにも甚だしく之れを裏切られた。軍として主力を..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)マノクワリ第二方面軍並びに第二軍が統帥を発動する以前、飛行場設定部隊はいち早く西部ニューギニアに入り、フォーゲルコップ(オランダ語でVogelkop)半島(注:この地を日本軍は亀地区と呼称した)で偵..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9)マノクワリ昭和17年(1942)年3月、日本軍(第16軍:司令官は今村均中将)はジャワ島に上陸、開戦92日目に、蘭印(オランダ領インドネシア)軍は降伏。同月末、大本営海軍部は、西部ニューギニアの要地..
-
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ第二軍司令部が置かれたマノクワリ。昭和19年(1944)4~5月、連合軍が、日本軍の大飛行場群があった中部ニューギニアのホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ・Ja..