記事「景行天皇」 の 検索結果 79 件
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宇佐の黄金伝説 4 「たらし」と「わけ」(承前) どの代の、どの人からが実在した人物なのか、という難しい話はさておいて、前回の表を見てもらえば、或る一つの傾向があることに気付きます。それは「初代から14代までの天皇に用いられていた『たら..
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応神と稲背入彦 7 景行の夢を叶える(承前) 記紀は景行天皇の遷都について、その理由らしきものを黙して語りませんが、五十瓊敷入彦命でもあった帝が若き日に、茅渟の河上の地で「一千口の剱」を拵え、忍坂に収めた後、石上神宮に蔵した故事を思..
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応神と稲背入彦 6 近江遷都も立案か(承前) では、稲背入彦命自身に関する言い伝えとはどんなものなのでしょう。話は大和と近江に建つ神社に移ります。近江は天智天皇が都を置いた処としても知られていますが、琵琶湖東岸には天孫一族が祀った御..
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応神と稲背入彦 5 神櫛と五十香彦は同一人(承前) 日本書紀古事記渟葉田瓊入媛鐸石別命(和気氏祖) 噡香足姫命沼羽田之入毘売命沼帯別命 伊賀帯日子命薊瓊入媛池(息)速別命 稚浅津姫(稲瀬毘古の妻)阿邪美能伊理毘売命伊許婆夜和気命 阿邪美津比..
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応神と稲背入彦 3 記紀の度重なる文飾(承前) 古代の命名の方法にも例外はあったにせよ「大郎女(長姉)」の亦の名が「若郎女(妹)」などと付く事など在り得ない話で、明らかに日本書紀は景行天皇の后妃に関する記事を潤色しています。子女の人数..
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応神と稲背入彦 2 景行と播磨国の縁(承前) 万葉集には「稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見(稲日野も 行き過ぎかてに思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ)」という柿本人麻呂の一首が収められていますが、この歌を参考にするな..
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応神と稲背入彦 1 景行は垂仁の弟景行天皇に播磨稲日大郎姫を、是非、皇后に迎えなさいと勧めたのは稲背入彦命であり、その景行帝こそ垂仁天皇の謎に包まれた次男・五十瓊敷入彦命の真の姿である、等とは記紀の何処を探しても書かれていません..
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超人・竹内宿禰 11 御歳三百六十余歳(承前) その武内宿禰(たけのうち・すくね、西暦73年生まれ?)という人物が第八代孝元天皇の孫なのか、それとも日本書紀が言うように屋主忍武雄心命の子供であるのか調べようもありませんが、それはさてお..
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神々の系譜 9 国の「富」は鉄なり(承前) 先に見た物部氏族との通婚も、三上氏の武器製造者であり祭祀者でもある面から理解すべきものであるのかも知れません。忍坂と言えば著名な鏡の銘文の中にも出てきた古代の要衝でした。近江の三上氏に代..
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神々の系譜 8(承前) 如何にカミサマ方の世界での出来事とは云え、ここまで来ると、流石にもう御手上げですが、葦原志挙乎命(アシハラシコオ)の名で表される神を「大国主(オオクニヌシ)」に成る前の、狭い地域を治める..
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金太郎と大王 2 斧鉞は全権の象徴(承前) 実は「天皇と斧鉞」に関しては、更に古い前例があるのです。しかも、二つ。先ず一人目は、景行天皇の息子・日本武尊(ヤマトタケル、仲哀天皇の父親)です。彼は父の命を受けて東奔西走、全国の「荒ぶ..
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隅田鏡と忍坂宮 6 近江遷都の背景(承前) 更に、推理をもう一歩進めると、大和朝の内部には、その初期段階から金属(武器)製造に長けた一族が存在していたと思われ、その代表格が『阿蘇ピンク石と景行帝』『阿蘇ピンク石と野洲』で詳述した稲..
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