記事「河井継之助」 の 検索結果 73 件
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司馬遼太郎の隠れた名作「峠」峠(上中下) 朝晩がだいぶ涼しくなった。秋になると読書がしたくなる。それも軽いものでなく、なんかこう、本格的な読書を。本格的といって直ぐ思い浮かぶのが、トルストイと司馬遼太郎だ。 知性..
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奥羽越列藩同盟(下)9月に入ると中旬から、続々と降伏する藩が増えた。9月15日福島藩に続き”盟主”の仙台藩が落ちた。ろくに戦いもせず、形ばかりの同盟が露呈した。17日山形藩、上山藩、18日天童藩(以上山形)、そして核だ..
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奥羽越列藩同盟(上)越後平野を血で染めた長岡藩と西軍の戦は、3か月に及んだ。戦略家、家老河井継之助の戦術と駆け引きで西軍を翻弄したが、長岡城は2度に及ぶ争奪戦で落城し、城下は灰燼に帰した。戦火は会津へ、会津へと向かうが..
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北越戊辰戦争(105)明治2年(1869)9月、継之助の遺族とその扶養者になった森源三は終焉の地となった塩沢を訪れ、さらに若松の建福寺の墓所に赴き、仮埋葬されていた継之助の遺骨を収めて長岡に持ち帰り、河井家の菩提寺栄涼寺..
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北越戊辰戦争(104)21日夜は、長岡藩主一門並びに藩の重臣も列席して通夜が営まれ、翌22日、葬儀が行われ、建福寺の墓所に埋葬された。 葬儀には会津藩主松平容保はじめ会津藩士多数が列席し、荘厳を極めたという。 こ..
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北越戊辰戦争(103)継之助のいいつけに対し、松蔵は涙を呑み、慰めたが、継之助は 「貴様の知ったことではない。用意しろといったら、用意せよ」 と叱りつけた。 松蔵は夜を徹して棺を作り、平型の骨壺を二つ作った。一つ..
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北越戊辰戦争(102)塩沢の矢沢家における8月12日から14日までの継之助の様子について『邑従日記』に長岡藩士植田十兵衛の報告が載っている。 「継之助殿、12日塩沢迄参られ止宿。翌13日朝5時前より、少々ふさぎ気味にて..
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北越戊辰戦争(101)継之助に良順が、どう説得したのか、良順が帰った翌日、継之助は行ける所まで行くことを承知し、7日間滞在した目明し清吉方を後にして只見村を発った。 途中、休所に予定された塩沢村の医師矢沢宗益方で休息..
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北越戊辰戦争(100)『河井継之助伝』(今泉次郎著)には、良順と継之助の様子を、付き添っていた長岡藩士外山修造が語っている。 「河井さんは(松本氏の来訪を)大層喜んで、一見旧知の如しという体で、直ぐに話を仕掛けて上機嫌..
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北越戊辰戦争(98)いよいよ継之助の最期の時を迎える。長岡藩老公牧野忠恭は、継之助が重傷を負って、面目なしとして途中でとどまっていることを知り、一刻も早く若松へ呼び寄せて治療させようと槇吉之丞に命じ、只見へ出立させる。..
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北越戊辰戦争(96)スネルとは、継之助が横浜での武器調達以来の親しい間柄で、いわゆる、戊辰の戦に備えて、かねて武器を預けていたという。 さらに 「数年後には、天下の形勢は一変し、今日の一敗は、必ずしも憂うるに足ら..
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北越戊辰戦争(95)長岡藩老公牧野忠恭(ただゆき)は、若松城下、建福寺にあって、継之助が傷を負い、只見村に滞在していることを知り、一刻も早く若松に呼び寄せるように使者を送った。 しかし、継之助は動こうとせず、只見..