記事「河井継之助」 の 検索結果 73 件
-
北越戊辰戦争(94)本日から、西軍相手に3か月にわたって戦い続けた長岡藩家老河井継之助の活躍を描く「北越戊辰戦争」を再開する。 前回は、6月1日までで、長岡藩士や家族が八十里越えで会津藩領只見村に落ち延びてきた悲劇..
-
北越戊辰戦争(91)継之助は目明し清吉方に8月12日まで滞在している。前後して只見に逃れてきた長岡藩士は少なくとも1200~1300人。家族が4000人前後とみて6000人近くが一時に只見地方に集結したのだ。 「三..
-
北越戊辰戦争(90)この朝、丹羽代官の突然の死を知った村人たちは、 「お代官さまは、それほど大変なご苦労をされておったのか」 と心を動かされた。 「そこまで追い詰めたおらたちにも責任はあるべ」 と相談がまとまり..
-
北越戊辰戦争(86)朝から降り続く雨の中、叶津に到着し、体を休めた継之助に代官丹羽族が 「これまで、誠にご苦労に存じる。河井殿には充分な接遇もできませぬが、お身体を大切になさいませ」 と重ね重ねの苦労を労り、接遇の..
-
北越戊辰戦争(85)8月5日、継之助一行は国境を越えて会津に入った。木ノ根峠からの道は、稜線を通り、現在の浅草登山道の山神ノ杉に至る古道である。 会津藩の山内大学隊と井深隊が木ノ根峠の関門を中心に警備していた。継之..
-
北越戊辰戦争(84)人々はみな無口、ただ、足を進めるだけだった。この日は山中に野宿することになった。 「八十里こし抜け武士の越す峠」 と詠んだ句は、沓掛峠を過ぎて越後の山々が目の前に広がる小松横手付近といわれている..
-
北越戊辰戦争(83)「会津へ行ったとて、何のよいことがあるか、俺は行かない。置いて行け」 と言って継之助は吉ヶ平を発とうとしなかった。 その2日前、葎(むぐら)谷から、若松滞在中の義兄あてに手紙をしたためている。..
-
北越戊辰戦争(82)最後は、継之助が長岡から会津へ落ち延び、目を閉じる12日間を書き述べる。長岡藩家老河井継之助は藩内をまとめ最新鋭のガトリング銃を最大の武器にして越後平野を舞台に3か月に及ぶ戦を仕掛けた。 11代..
-
北越戊辰戦争(78)河井継之助は、17歳にして鳥を割きいて王陽明を祀ったほど若くして陽明学に熱中した。だが後年、生涯の師とあがめる陽明学者山田方谷を備中松山藩に訪ね、教えを乞うた際、方谷から彼の皮相的な学問態度を批判さ..
-
北越戊辰戦争(75)さて、河井継之助についてである。継之助のバックボーンは陽明学によって貫かれていた。陽明学は朱子学と並ぶ儒学の一大学派である。朱子学が、窮理を目指した学問であるのに対して、陽明学は窮心、つまり心の奥底..
-
北越戊辰戦争(74)次は河井継之助の人物像に移るが、その前に長岡藩と会津藩との深い結びつきをを示す史実を紹介する。 長岡城陥落後、会津救援に駆けつけた山本帯刀一隊は、鶴ヶ城での籠城戦を戦い抜いていた慶応4年9月8日..
-
北越戊辰戦争(46)また、越後には幕府領も多いことから、幕府脱走兵の衝鉾隊に新遊撃隊や水戸藩諸生隊などが入り込み、猖獗していた。 当然、高田城下から北上する西軍と各地で衝突することになった。長岡藩兵を中心とした70..