記事「源平」 の 検索結果 96 件
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(37)-八幡太郎の導き-西暦1180年(治承四年)10月18日、甲斐源氏棟梁・武田信義率いる2万騎は黄瀬川(神奈川県御殿場市)にて、河内源氏棟梁・源頼朝と合流。河内・甲斐源氏の軍勢はおよそ10万騎に膨れ上がっていました。 ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(36)-甲斐源氏の参戦-西暦1580年(治承四年)10月16日、源頼朝は源氏に味方する東国武士の手勢およそ4万ほどを引き連れ、鎌倉を出発。平維盛率いる平家軍が進軍を進める駿河国(静岡県)へ向かいました。 そしてこの頃、..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(35)-頼朝、鎌倉に入る-西暦1180年(治承四年)9月4日、下総国千葉荘一帯(千葉県千葉市中央区一帯)を支配する千葉常胤は、安房国に亡命して勢力挽回を計画している源頼朝の側近・安達盛長の説得を受け、下総国府を襲撃。平家一族..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(34)-続発する源氏の挙兵と平家の対応-源頼朝が安房国(千葉県南部)で再起を図っている頃、畿内の平家一門はようやく源氏の挙兵を知ることになります。 西暦1590年(治承四年)9月1日、大庭景親による「頼朝挙兵」の一報が、平清盛の元に届..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(33)-千葉氏の決断-西暦1180年(治承四年)8月28日、箱根権現別当・行実と永実の手により船を手に入れた源頼朝一行は、相模国真鶴岬(神奈川県足柄下郡真鶴町)から安房国(千葉県南房総市)に向けて出発しました。 なお..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(31)-社改め-西暦1180年(治承四年)8月23日、源氏の御大将・源頼朝は平家方の武将・大庭景親と戦い、大敗しました。 頼朝は土肥実平の進言を受け軍を解散。 頼朝自身は土肥一族に守られながら逃げ延び、道で出..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(30)-箱根権現の導き-西暦1180年(治承四年)8月23日、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)近くで行われた「石橋山の合戦」は、源氏の御大将・源頼朝軍の大敗で終わりました。頼朝軍は来るべき再起の日を信じて軍を解散、頼朝自身は..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(29)-頼朝、絶体絶命-西暦1180年(治承四年)8月23日、源頼朝約300騎と平家方武将・大庭景親ら3000騎は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)近くの石橋山で合戦となりましたが、頼朝軍は劣勢となって大敗しました。翌24..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(28)-若獅子の死-西暦1180年(治承四年)8月23日、源頼朝約300騎と平家方武将・大庭景親ら3000騎は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)近くの石橋山で合戦となりました。両者の兵力の差は如何ともしがたく、頼朝軍は..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(26)-石橋山の戦い-西暦1180年(治承四年)8月23日、源頼朝ら300騎は大庭景親(おおば かげちか)の進軍を知り、急いで土肥郷を離れ、相模国石橋山の上に陣を張り、平家勢力である大庭景親を迎え討つ体制を固めていました。..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(25)-相模進出-源頼朝は、伊豆国目代である山木兼隆を討った後、自らの行った行為が平家への謀反ではなく、朝廷への忠義であることを前面に出し、蒲屋御廚における中原知親の横暴や走湯山の兵の狼藉等の問題を処理していました。こ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(24)-関東下知始-西暦1180年(治承四年)8月17日未明、源頼朝率いる総勢約80騎が、伊豆国目代(代官)の山木兼隆の屋敷(山木館)を急襲し、見事、山木兼隆を打ち果たしました。頼朝軍は兼隆を討ち果たすと、夜明け前に頼朝..