記事「源平」 の 検索結果 96 件
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(23)-山木館襲撃(後編)-西暦1180年(治承四年)8月17日未明、源頼朝率いる総勢約80騎が、伊豆国目代(代官)の山木兼隆の屋敷(山木館)を急襲しました。当初、戦況は一進一退で、本隊の大将である北条時政らは山木館の門すら破れ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(22)-山木館襲撃(中編)-西暦1180年(治承四年)8月17日未明、源頼朝率いる総勢約80騎が、伊豆国目代(代官)の山木兼隆の屋敷(山木館)を急襲しました。 実行部隊の総大将である北条時政は、佐々木定綱兄弟に別働隊を率い..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(21)-山木館襲撃(前編)-西暦1180年(治承四年)8月17日未明、源頼朝率いる総勢約80騎が、伊豆国蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町付近)の頼朝の屋敷を出発しました。 軍勢が目指すのは伊豆国主・平時忠の目代(代官)であ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(20)-出陣前夜の軍議-西暦1180年(治承四年)8月16日夜、伊豆国小蛭ヶ島にある源頼朝の屋敷に続々と武士が集まりはじめました。 主だった武士は、次の通り ▼北条氏(頼朝の正室・政子の実家) 北条時政(政子父/..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(19)-謀議-西暦1180年(治承四年)8月6日、源頼朝は、佐々木盛綱、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉を自邸に呼び「そなたを頼みに思うゆえに、そなただけに話す」と自らの挙兵の意思を吐露しました。そ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(18)-暗躍-西暦1180年(治承四年)8月2日、相模国大庭御厨の住人、大庭景親は、京大番役の役目を終えて自領である相模国の所領へ帰国しました。その帰国には平家による源氏追討の密命が下されていました。 そして..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(17)-頼朝決意-平安時代末期、平氏の勢力の拠点は西国(中国、四国、九州)に固められていましたが、東国にも少なからず存在していました。その中に、相模国の住人で大庭景親(おおば かげちか)という者がいました。大庭氏は相模..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(16)-源氏追討-西暦1180年(治承四年)5月27日、院御所議定の結果、官軍による興福寺への追討攻撃は見合わせられました。 しかしながら「なんとしても官軍による追討を」と望んだ平氏の腹の虫は治りませんでした。 ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(15)-右大臣藤原兼実-西暦1180年(治承四年)5月26日、以仁王の挙兵による一連の騒動は平家軍により鎮圧され、以仁王は討死。源頼政一門も自害して果てるという結末を迎えました。 翌27日、以仁王の討死が知らされる前に..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(14)-頼政散華-西暦1180年(治承四年)5月26日、宇治川の合戦で劣勢となった源頼政は宇治の平等院まで兵を引き、以仁王に手勢30騎を与えて逃し奉ると、一族郎党一丸と成って、以仁王を逃すために盾となって戦うことを決意..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(13)-宇治川の戦い-西暦1180年(治承四年)5月26日、平家軍と源頼政軍は京都宇治川を挟んで両軍は対峙しました。位置的には、現在の宇治橋がある宇治市宇治蓮華、宇治里尻あたりだと思われます。 頼政の軍は、平等院に逃..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(12)-頼政決起-西暦1180年(治承四年)5月21日 平時忠が園城寺(三井寺)を取り囲んですでに一週間、事態が全く打開されない状況においてイライラが募っていた平清盛は、ついにそれを爆発させました。 「時忠のアホ..