記事「自伝」 の 検索結果 382 件
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セキセイインコある日学校から帰ると、土間に「チッチッ」と耳慣れない声がし、見ると靴箱に鳥かごがおかれていた。中には小鳥が二羽いて、背と尾羽が青や緑や黄色の不思議な色合いに輝いていた。 私は駆け寄ってのぞき..
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パッチン(メンコ)関東では「メンコ」(面子)と呼ばれているようだが、私たちはそれを「パッチン」と呼んでいた。子供の手のひらほどの大きさの長方形の紙である。薄いのから厚いのまでいろいろある。なかには丸い形のものもあった..
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学芸会松山市立東雲小学校、これが私の通った小学校だ。北隣には御幸中学校があり、両者は校区を同じくするペアの学校だった。御幸中学は、年に一度の学芸会の際、その講堂を会場として貸してもらっていた。 学..
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山茶花(サザンカ)サザンカを見ると思い出す。苦しいその日暮らしの中、快活に生きていた若き日の父と母を。あの遠い日々を。立ち止まることなく、身を労働にさらし、それでもなお輝いていた、父や母のことを。その愛を受けて僕が、..
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アトリエ府中から松山に帰って来たとき、私達夫婦は、「しばらくの間」との条件つきで妻の実家の納屋に住むことになった。納屋は南北に細長い長屋のような構造で、その南の端に、私達のために八畳ほどの畳の間と、押入、ト..
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沈丁花(ジンチョウゲ)数年の会社勤めを経て、私は、自分が卒業した中・高等学校に数学教師として戻ってくることになった。もうずいぶん昔のことである。 故郷に帰るとはいえ、さしあたって住むところがない。アパートでも借り..
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多磨霊園駅もうすでに三十年近く前のことになる。東京郊外の府中で、電機・通信メーカーのコンピュータ部門に勤めていた私は、明けても暮れても「コンピュータ、コンピュータ」の生活に我慢できなくなり、そのとき丁度たまた..
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鳩になったTさん中学1年生の1学期,まだ初夏とも呼べない時節だったと記憶する。幼いころから兄のように慕っていた3歳年上のTさんが世を去った。 Tさんの家は私の家から3軒隣にあった。ともに大通りから一筋北側の..
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私と囲碁私の碁歴はすでに35年ほど。最初に碁盤に石を並べたのは,中学3年の時だった。定石書を買ってきて,訳も分からず並べてみる。盤の左下隅を使って書かれた定石を右下に並べ替えようとすると,もう頭がこんがらが..
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油揚げ屋父は生来手先の器用な人で、それに工夫好きであった。戦争前、父はその兄との共同経営で下駄工場を始め、兄の方が経理面、弟である父が技術面を受け持った。当時、下駄は生活の必需品であった。作れば作るだけ面白..
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女の先生1954年4月、彼は松山市立東雲小学校に入学した。学校は、松山の中央にそびえる名城・松山城のすぐ北側に位置する。彼が入学した頃、生徒数はピークを迎えようとしており、学校は数の猛威に押しまくられて講堂..
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亥の子秋も深まり11月に入ると,われわれ子供たちは亥の子を心待ちにした。百科事典によると,亥の子の行事は中国に起こり,平安宮廷にもたらされたという。そんなに古い伝統をもつ行事だとは知らなかった。もとは,旧..