記事「アントニオ猪木」 の 検索結果 1240 件
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坂口征二がアントニオ猪木を選んだ真相坂口征二が、ジャイアント馬場と遺恨はないものの、合流しなかったことは前回書きました。今回(「東京スポーツ」2009年11月25日付)は、いよいよアントニオ猪木と会い、夢を語り、合流に近づいたあ..
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坂口征二が語る、全日本設立決意したジャイアント馬場との会話坂口征二の述懐で構成されていた「東京スポーツ」に書いている連載は、いよいよ昭和プロレスの謎の一つである、ジャイアント馬場の独立と坂口征二との会談にうつりました(11月18日付)。要するに、ジャ..
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坂口征二が新日本プロレスから「引き抜き」を打診されていた真相坂口征二は、斜陽の日本プロレスに見切りをつけ、若手数人を引き連れて新日本プロレスと合流したのが1973年3月。その前年の秋には、マサ斎藤らがセットしてアントニオ猪木・坂口征二の話し合いが持たれ..
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“ダラ幹”といわれた日本プロレス幹部を坂口征二が語った“ダラ幹”と聞いて、日本プロレスの幹部をイメージするのは、相当な昭和プロレス通ですね。坂口征二の連載をずっとご紹介していますが、今回は、いよいよジャイアント馬場が坂口に、日本プロレスをやめるこ..
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日本テレビ「日本プロレス中継」打ち切りを語る坂口征二日本テレビの「日本プロレス中継」というのは、当時、日本テレビと力道山、正力松太郎と三菱電機という4者の結びつきによる昭和プロレスを象徴するコンテンツでした。それは、力道山や正力松太郎の死後も続..
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坂口征二は日本プロレスの「アントニオ猪木除名」をどう語ったか坂口征二が、日本プロレスのナンバー2としてのし上がってきたのは1972年暮れ。吉村道明とタッグを組み、アジアタッグ選手権を取って国内初戴冠した時です。その試合は、前チャンピオンであったアントニ..
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昭和プロレスの「東京タワーズ」ジャイアント馬場、坂口征二組昭和プロレスの「東京タワーズ」といえば、ジャイアント馬場、坂口征二組です。なぜ「といえば」と条件をつけたかというと、グーグルで「東京タワーズ」という語句で画像検索しても、何やら近代的な建物の画..
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ジャイアント馬場、怒りのポーズ!の真相は?【1968.11.29】ジャイアント馬場といえば、作家・村松友視が「プロレス内プロレス」とかつて名付けたほど、プロレスの予定調和的な面を大切にするレスラーです。そして、因縁で物語を作ることを好みません。そんなジャイア..
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ニック・ボックウィンクルについて振り返ろうニック・ボックウィンクル氏が亡くなったというニュースは、昭和プロレス的には見過ごせません。14日(日本時間15日)に亡くなったことが16日に判明したそうです。元AWA世界ヘビー級選手権者。全日..
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日本陣営、三強で連夜のストレート勝ち【1968.7.17】日本陣営にジャイアント馬場、アントニオ猪木、吉村道明という昭和プロレス強を揃えた6人タッグマッチは、スカル・マーフィー、クロンダイク・ビル、マイク・ローレンというやや格落ち外人トリオに対してス..
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日プロ三羽烏で日本陣営2フォール勝ち【1968.7.10】三羽烏、といえばジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎のことを指すのは昭和プロレスの常識であるが、その三羽烏がメインで6人タッグを組んだ。普通はこの3人が全員組んでしまうとセミ以下の前座..
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BI砲にミツ・ヒライのトリオで不完全燃焼の勝利【1968.7.9】ジャイアント馬場とアントニオ猪木が、序盤戦でまたしても組んだ。今回は先輩レスラーのミツ・ヒライが加わっての6人タッグマッチであるが、序盤から2度目のBI砲揃い踏みは、前日、スカル・マーフィー、..